第7話:部隊の休日、温泉旅行

帝国軍の将兵にとって、休暇とは、疲弊した心身を回復させ、次なる作戦に備えるための戦略的休息期間である。ターニャ・デグレチャフ少佐も、この理屈は理解していた。だが、目的地が温泉旅館と聞いた時、彼女の脳内ログはわずかに抵抗を示している。


「少佐、温泉ですよ!楽しみですね!」


ヴィーシャがはしゃいだ声で言った。ターニャは、彼女の純粋な喜びに、内心で舌打ちをする。この『強制的な心身のリフレッシュ』は、非効率な感傷主義に他ならない。


だが、到着した温泉旅館は、想像以上に趣のある佇まいであった。畳の香りが、彼女の鼻腔をくすぐる。露天風呂からは、硫黄の独特の匂いが風に乗って漂ってきた。兵士たちは皆、安堵の表情を浮かべる。ヴィーシャは特に目を輝かせて、旅館の隅々まで探索していた。


女将は満面の笑みで、彼女に小さな浴衣を差し出した。それは、明らかに子どものサイズである。ターニャの合理的な思考回路が、警告を発する。


【警告】識別コード、不一致。対象は『帝国軍少佐』。提供された物資は『子供用浴衣』。


ターニャは無言で浴衣を受け取った。彼女の冷静な判断は、ここで騒ぎを起こすのは、自身の『労務管理』の観点から非効率であると結論付けた。


夕食の時間。食卓に並んだ豪華な料理に、兵士たちは歓声を上げた。ヴィーシャも目を輝かせ、次々と料理を平らげていく。だが、ターニャの前に置かれたのは、明らかに量が少ないお子様ランチのようなものであった。


「少佐、私の分もあげましょうか?」


ヴィーシャが心配そうに尋ねたが、ターニャは首を横に振った。この侮辱は、私個人の問題である。軍人としての矜持が、それを許さなかった。彼女の脳内ログは、すでに怒りの兆候を示していた。


夕食後、ターニャは誰もいない露天風呂へと足を運んだ。湯気に包まれ、硫黄の香りが濃くなる。熱い湯に身を沈めると、硬直していた筋肉が解けていくのが分かった。


「……いや、これは精神汚染だ。湯の熱は、私の思考を鈍らせる危険な麻薬にすぎない」


湯の温かさが、まるで「母胎」に還ったような安寧を錯覚させる。ターニャは、即座にその思考を打ち消した。


【警告】未知の感覚、検出。コード名:安寧。これは、私が最も忌避すべき感情である。


彼女は、必死に湯の中で軍事理論を反芻する。だが、湯の温かさは、彼女の合理主義の防衛線をじわじわと侵食していく。


そして、事件はチェックアウトの際に起きた。


女将が、全員分の料金を計算し終えた後、ターニャに向かってにこやかに言った。


「お会計は、大人〇〇帝国マルク、お子様が××帝国マルクになります!」


その言葉が、ターニャの精神を完全に破壊した。彼女の背後で、数人の新兵がくすくすと笑い始めるのが聞こえた。


【警告】認識、矛盾。私は『帝国軍少佐』である!『お子様』ではない!


ターニャは、怒りに燃える目を女将に向けた。だが、彼女の口から出るのは、感情的な罵倒ではない。


「貴官。私の身分を、その安易な『お子様料金』で軽視するつもりか?私は、帝国軍少佐、ターニャ・フォン・デグレチャフである!私の功績、階級、そしてこの身体に宿る膨大な魔力を、その矮小な判断基準で評価するとは、愚かにも程がある!」


ターニャは、感情の赴くままに捲し立てる。


「私の給与は、貴官の宿の経営規模を優に超える!私の存在は、帝国軍の最前線において、何万人もの兵士の生存率を左右するのだ!それを『お子様』と呼ぶとは、貴官は帝国の、いや、人類の歴史における合理性の進化を否定するのか!?」


彼女の真剣な怒りの咆哮に、女将は顔を真っ青にして後ずさった。ヴァイス中尉が必死に笑いを堪え、グラント少尉が目を白黒させている。


「少佐、少佐!落ち着いてください!」


ヴァイス中尉が慌てて割って入った。彼は、女将に申し訳なさそうに頭を下げると、ターニャの料金を大人分で支払った。


ターニャは、ヴァイスの行動に感謝しつつも、怒りは収まらなかった。


【記録】『お子様料金』という評価、受け入れ不能。この侮辱は、私のアイデンティティに対する攻撃である。


帰り道、ヴィーシャがはしゃいだ声で言った。


「少佐、また来たいですね!皆でまた温泉に行きましょう!」


ターニャは、窓の外を睨みつけながら、冷たい声で呟いた。


「必ず来るぞ。次回は……帝国軍少佐が、経済制裁で貴様らを完膚なきまでに叩き潰してやる」


彼女の呟きに、ヴィーシャは不思議そうに首を傾げた。


「少佐って、ほんとに温泉気に入ってるんですね!」


ターニャは、ヴィーシャの無邪気な一言に、内心で盛大な舌打ちをした。彼女の旅は、精神的な安寧を求める旅ではなく、新たな戦場へと変貌していた。

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