第6話:ターニャ、子守をする
帝国軍の基地に、似つかわしくない訪問者がいた。戦災孤児だというその幼い子どもは、ターニャの身長よりも頭一つ分ほど低い。大きな瞳には、戦争の影ではなく、純粋な好奇心が満ちていた。
「少佐、申し訳ありません。一時的に預かることになりまして……」
部隊長が、申し訳なさそうに子どもを差し出す。ターニャは、この「任務」を即座に引き受けた。軍人として、上官の命令は絶対である。それに、この子どもを「任務」として割り切れば、非効率的な感情を挟む余地はない。
【記録】新規任務、承認。コード名:戦災孤児管理。目標:生存率維持。
ターニャは子どもを観察する。その身体は細く、栄養状態は良好とは言えない。彼女の脳内で、即座に最適化計画が立てられる。
「よろしい。貴官は、この資源を有効に活用できるよう、管理を徹底せよ。まずは食料と睡眠である」
ターニャは子どもに真顔で言い聞かせた。子どもは、ただきょとんとして彼女を見つめている。彼女の言葉は、理解できていないようであった。
【障害】ターゲット、命令を理解せず。思考回路に齟齬あり。
ターニャは軽く舌打ちをした。この任務は、想像以上に難易度が高いようである。子どもは、ターニャの隣を歩きながら、しきりに周囲を見回す。そして、道端に咲いていた名も知らぬ花を指差した。
「ターニャお姉ちゃん。きれいだね」
「……私は姉ではない。ターニャ・デグレチャフ少佐である」
ターニャは、無感情にそう訂正した。だが、子どもは気にすることなく、その花を摘むと、彼女の軍服のポケットにそっと差し入れた。
【異常検知】未知の行動パターン、検出。コード名:親愛の情。解析不能。
ターニャは、違和感を感じながらもその場をやり過ごした。彼女は子どもを部屋に連れて行き、ベッドに寝かせようとする。
「今から一時間の休憩を許可する。その後は、昼寝である」
「嫌だ!おもちゃで遊びたい!」
子どもはベッドを飛び降り、床に散らばった自身の玩具を手に取った。ターニャの脳内ログが、警告を乱発する。
【警告】ターゲット、命令を拒否。統制不能。これは、反乱か?
「貴様。軍規に反する行動は許されない。直ちにベッドに戻れ!」
ターニャは、軍人として当然の命令を下した。だが、子どもは泣き出した。その泣き声は、ターニャにはまるで「音響兵器」のように聞こえた。彼女の合理的な思考回路が、ノイズによって破壊されていくような感覚に陥る。
「……無駄なエネルギーの浪費である。即座に停止せよ」
ターニャは、困惑しながらも、冷静にそう命じた。しかし、子どもの泣き声は止まらない。彼女は、この「非合理的な現象」を前にして、どうすればいいか分からなくなった。
その時、ヴィーシャが部屋に入ってきた。
「少佐!どうかなさいましたか?」
「ヴィーシャ伍長。この任務は、私の思考範疇を超えている。このターゲットは、統制が取れない」
ターニャは、心底困り果てた表情で言った。ヴィーシャは、泣き止まない子どもを抱き上げ、優しく頭を撫でた。すると、不思議なことに、子どもの泣き声は次第に小さくなっていった。
「よしよし。いい子ですね。疲れたでしょう?眠りましょうか」
ヴィーシャの柔らかな声に、子どもは安心したように目を閉じ始めた。その様子を見ていたターニャの脳内で、新たな解析が始まる。
【記録】ヴィーシャ伍長の行動、解析。コード名:母性プロトコル。効率性:極めて低い。だが……有効。
ターニャは、この「母性プロトコル」という非効率で非論理的な手法が、自分よりもはるかに有効であることを目の当たりにした。彼女は、それを認めざるを得なかった。
子どもは、ヴィーシャの腕の中で、すやすやと眠り始めた。ヴィーシャは、そっとターニャに子どもを差し出す。
「少佐も、少し抱いてみますか?」
ターニャは、戸惑いながらも、子どもを受け取った。その小さな身体は、驚くほど軽かった。ターニャは、子どもを抱えたまま、窓の外を眺めていた。その手の中で、子どもは彼女の軍服をぎゅっと掴んだ。その小さな手の温かさが、ターニャの冷たい皮膚に伝わる。
【異常検知】未知の感覚、検出。コード名:ぬくもり。解析不能。
ターニャは、その感覚をどう処理すればいいか分からなかった。それは、彼女の合理主義の枠組みにはない、まったく新しい概念であった。
しばらくして、子どもは迎えに来た親戚の元へと帰っていった。ターニャは一人、部屋に残された。彼女は、先ほどまで子どもがいた場所に視線を向けた。そして、彼女の軍服のポケットに、花がまだ入っていることに気づいた。
「……ふむ。この花は、無駄な資源の浪費である。だが……」
ターニャは、その花を捨てることはしなかった。彼女の脳内で、まだ未解明のログが点滅している。
【記録】任務終了。ターゲット、無事帰還。だが……結果、未定義。
ターニャは、その未定義のログを眺めながら、この「非効率な任務」が、彼女自身の思考に、これまでになかった影響を与えたことを認識するのであった。
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