第4話:訓練場にて、掃除の攻防
帝国軍の訓練場に、苛烈な訓練の余韻が残っていた。巻き上げられた土埃が床にうっすらと堆積し、泥にまみれた装備品が無造作に転がっている。新兵たちは訓練の疲労から、掃除を後回しにしようと互いに顔を見合わせていた。
その光景を目の当たりにしたターニャ・デグレチャフ少佐は、わずかに眉をひそめている。彼女の脳内で、この「乱雑」という事象が即座に解析される。
【記録】戦場環境、汚染度:高。これは、戦力の低下を意味する。
ターニャは厳格な表情で、新兵たちを睥睨した。彼らにとって、掃除は面倒な雑用でしかなかった。だが、彼女にとっては、これは軍の根幹を揺るがす由々しき問題である。
「諸君。貴様たちは、なぜこの状況を放置しているのか?」
新兵の一人が、おずおずと答えた。
「疲れて……いますので……」
その瞬間、ターニャの脳内ログが、警告を発する。
【警告】敵性思考パターン、検出。コード名:怠惰。戦線崩壊の第一歩。
「愚か者め!清掃もできん無能が昇進すれば、私の労務管理コストが跳ね上がるではないか!貴様たちは、将来、国庫を食いつぶすだけの疫病神になる気か!」
ターニャの声が、訓練場に響き渡った。彼女の小さな身体から発せられる威圧感に、新兵たちは一斉に姿勢を正す。
「訓練の目的は、単に戦闘能力を向上させることではない。軍規の厳守、環境の管理、そして自己の統制を学ぶことにある。掃除とは、単なる作業ではない。それは、秩序の維持を意味するのだ!」
彼女の思考は、さらに加速する。
【記録】連想開始。散乱した装備品は、通信途絶した部隊。床の泥は、突破された防御陣地。ゴミ箱は、敵の補給拠点である。
「貴様たちは、この乱雑な状況を放置することで、戦線に穴を空けているのだ!規律が乱れれば、それはやがて統制の取れない愚鈍な軍隊となり、敵の前で無力な兵士へと成り下がる!」
ターニャの真剣な説教に、新兵たちは困惑するばかりである。
「少佐……これは、ただの掃除ですが……」
ヴァイス中尉が、小声で呟いた。だが、ターニャはまるで聞こえていないかのように、それを無視する。彼女は、言葉だけではこの状況を理解させられないと悟った。
「……ふむ。どうやら、言葉では理解できんようだな。よろしい。ならば、実戦で示すまでだ!」
ターニャはそう言うと、傍らに積まれた雑巾の山から、一枚を掴んだ。そして、バケツに水を汲む。その一連の動作は、まるで新たな作戦の開始を告げる儀式のようであった。
「諸君。よく見ておけ!これより、『訓練場環境整備作戦』を単独で実行する!」
彼女は、驚く兵士たちを尻目に、雑巾を手に床に走った。その姿は、まるで戦場を駆け抜ける一人の精鋭兵士のようであった。その隣で、ヴィーシャは笑顔で雑巾を手にしていた。
「少佐!掃除って、なんだか楽しいですね!」
ターニャの脳内ログが、エラーを吐き出す。
【記録】『楽しい』という認識、検出。私の主観と乖離。解析対象に設定。
ターニャは床に這いつくばり、雑巾を高速で動かし始める。
「いいか!雑巾は、敵の侵入を許さない防御線である!一ミリたりとも隙を見せるな!」
彼女は真顔で、地面を拭きながら叫ぶ。その小さな身体から放たれる気迫に、周囲の兵士たちは圧倒されていた。
「……なんだあれは。まさか、少佐が本気で掃除を……?」
「全力疾走してるぞ……雑巾掛けで……」
新兵たちが、呆然とした表情で呟き合う。やがて、その一人が呟いた。
「……もしかして、これが帝国式の“戦場掃除術”か……?」
ターニャは、彼らの勘違いなど気にも留めない。彼女の思考は、既に完璧な「秩序」の構築に集中していた。
【記録】敵残存兵(埃)を殲滅。防御陣地(床)の完全回復を確認。
ターニャは、息を切らしながらも満足げな表情で立ち上がった。その手には、泥で真っ黒になった雑巾が握られている。
「どうだ、諸君。これこそが、自己の統制であり、軍規の基礎である。秩序とは、血と汗と泥の上に築かれるのだ!」
彼女の姿を見て、新兵たちの顔色が変わった。それは、面倒くさいという感情ではない。自分たちの無能さを、ターニャ少佐の異様なまでの規律への執着が突きつけている、という恐怖であった。
「……よし、俺たちもやるぞ!少佐に負けてられるか!」
新兵たちは、慌てて雑巾を手に取った。ターニャは、その様子を満足げに眺める。
【記録】部隊、作戦に編入。士気、向上。任務、達成。
「……結局、新兵たちが全員走り回る羽目になるんですよね」
ヴァイス中尉は、遠巻きにその光景を見ながら、深々とため息をついた。今日の彼女の戦いは、見事な勝利に終わった。
――たとえそれが、雑巾一枚の戦場であっても。
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