幼女戦記・日常戦線 ― ヴィーシャとターニャの十二日間 ―
五平
第1話:ターニャ、食堂のパン争奪戦
朝の食堂に漂うパンの香りは、飢餓戦線の兵士を惑わせた幻臭か、あるいは敵の欺瞞作戦か。ターニャ・デグレチャフは、その香りにわずかな違和感を覚えている。完璧な朝食を摂るため、今日も厳格な作戦を実行せねばならない。だが、どうやら今日の作戦は、想定以上の難易度を伴うようである。その違和感は、昨日の小隊講義に端を発していた。
「補給は軍隊の生命線である。食料の無駄遣いは軍の規律を乱し、士気低下を招く」
彼女はそう厳しく説教したばかりである。にもかかわらず、今日のパンの量は明らかに少なかった。まるで誰かが事前に横取りでもしたかのように、パン皿の山はいつもより低い。この違和感は、やがて確信へと変わった。これは無秩序な個人の蛮行ではない。これは、パンという名の戦略物資を巡る、戦場以上に苛烈な生存競争である。
ターニャの脳内に、鮮明な戦況マップが起動する。
【警告】カロリー不足。パン残量=致命的低下。
これは無秩序な個人の蛮行ではない。これは、パンという名の戦略物資を巡る、戦場以上に苛烈な生存競争である。
【記録】目標捕捉。座標(食堂、パンA-1)、距離2.5m。
狙いを定めたのは、部下の一人、ヴァイス中尉である。彼の視線はすでにパンの山に釘付けになっている。警戒レベルはすでに引き上げられていた。
【記録】警戒レベル:III(最大)。敵、すでに戦闘態勢に移行。
ヴァイスは、普段の理知的な姿からは想像もつかないほど、獲物を前にした獣の目になっている。彼は一歩、また一歩とパンの山に近づいていく。その動きは、まるで戦線で敵の目を欺く奇襲作戦のようである。
「少佐、何の作戦でありますか?」
傍らにいたグラント少尉が、小声でターニャに尋ねた。ターニャは動かない。
「静粛に。これは、パンという名の戦略物資を巡る生存競争である。我々は、この状況下で効率的に物資を獲得する訓練をしている」
グラントは困惑している。目の前の食堂は平和そのものだ。だが、ターニャの真剣な表情を見て、何も言えなかった。
その瞬間、ターニャの脳内にログが走る。
【記録】敵、奇襲行動を開始。コード名:ブレッド・スナッチ。
――しかし、ターニャはそれを見逃さない。彼女の視線は、すでに次の目標を捉えていた。それは、ヴァイスの背後から回り込もうとするヴィーシャ伍長である。
【記録】伏兵を確認。ヴィーシャ伍長の側面攻撃アルゴリズムが発動。
ヴィーシャは、一見すると無警戒に見える。だが、その背後に隠された動きは、熟練の工作員を思わせるものであった。彼女の視線は、パンの山を通り越し、その先のジャムの瓶に一瞬だけ向けられる。
【記録】これは、ジャムという名の陽動か。敵は、パンではなくジャムを奪取することで、こちらの注意を逸らすつもりである。
ターニャの思考は加速する。彼女の目は、パンの山だけでなく、その周囲の状況、部下たちの視線の動き、微かな呼吸の乱れまで捉え始めている。
「これは戦術の応用である。パンの争奪は、兵站の概念を応用した生存競争。この状況下で効率的に物資を獲得できなければ、戦場で飢え死にする」
ターニャは真顔で、隣に立つグラントにそう語りかけた。他の兵士たちも、パンを前にした獲物の目になっている。
ターニャは静かに立ち上がった。ヴァイスもヴィーシャも、ターニャの動きには気づいていなかった。彼らの脳内は、目の前のパンでいっぱいなのだ。彼らの無防備さが、ターニャの心を高揚させる。この愚かな闘争こそが、彼女の知的好奇心を刺激するのである。
【記録】これこそ、私が求めていたもの。敵の無能を突き、自らの知性を証明する場である。
ターニャは、無駄な動きを一切排除し、最短距離でパンの山に接近する。その姿は、戦場の空を舞う、一匹の白銀の妖精のようであった。彼女が手を伸ばした瞬間、ヴァイスとヴィーシャが同時に気づく。
「少佐!?」
ヴァイスは驚きに声を上げ、ヴィーシャは固まった。パンに手を伸ばそうとしていた彼らの動きは、まるで時間が止まったかのように静止している。ターニャは、彼らの目の前で、パンを一つ、そしてもう一つ掴んだ。パンの焼きたての香りが、彼女の鼻腔をくすぐる。それは、爆薬の装填された信管に似た、危険な脆さを持つ、しかし何よりも美味そうな匂いであった。
「ヴァイス中尉、ヴィーシャ伍長。戦場において、物資は共有するべきものである。個人の欲望に駆られて統制を乱すのは愚行。今回の件は不問に付すが、次は許さない」
彼らは顔を見合わせた。ヴァイスは困惑し、ヴィーシャは申し訳なさそうに頭を下げた。ターニャは、自らの行動を完璧な軍事行動として納得している。物資の公正な再分配は、内乱のリスクを最小化し、士気を高める優れた統治術である。
【記録】統治の理論、応用。結果:部隊の秩序維持に成功。
彼女のログは、今日の作戦の成功を静かに示している。手にしたパンを一口齧ると、その完璧な食感が彼女の口の中に広がった。至福の瞬間である。だが、彼女の視線は、部下たちが手にしたパンのほうに移っていた。
【記録】しかし、私のパンは一つ減った。これは戦略的な損失か、それとも部隊の効率を上げるための必要経費か。
ターニャの思考は、今日も止まることはない。
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