第2話


 雪だ。


 外を見上げていた陸議りくぎはふっ、と目の前に過った白いものに気付いた。

 雪を見たことが無いわけではないけれど、やはり北の地だと雪の積もり方も違うのだろうと思う。

 ひらひらと花びらのように舞っている。

 これが大雪になるなんて、想像が出来ない。

 扉が開いて、徐庶じょしょ司馬孚しばふが入って来た。


「寒くなりそうだったので、火鉢をもらって来ました」


 二人で持って来た重い火鉢を陸議が寝ている寝台の近くに置いてくれる。


「寒くありませんか、伯言はくげんさま」


 司馬孚がやって来る。


「毛布をもらってきたのでもう一枚掛けておきます。

 風邪など召しませんように。雨戸も閉めておきましょうか?」


 甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる司馬孚に陸議は微笑った。


「ありがとうございます。気をつけます。……でも、もう少し雪を見ていてもいいですか?」


 徐庶が炭を並べて、火鉢を温めてくれる。


「涼州の雪は……初めて見ます」


 司馬孚しばふは兄から、陸伯言りくはくげんの事情の全てを聞いた。

 呉の名門陸家の当主として、幼い頃から養育を受けて来たこと、

 陸康りくこう孫策そんさくに攻められて殺されていること。

 その孫家に帰順することを陸議が決めたこと。

 彼は建業けんぎょうで、周瑜しゅうゆ呂蒙りょもうといった者達の側で学びを受けていたという。

 

 赤壁せきへきで、周瑜しゅうゆから諸葛亮しょかつりょうの暗殺を命じられ、それを果たせなかったこと。


鳳雛ほうすう】と呼ばれた龐統ほうとうという男のことは、司馬懿しばいも詳しくはまだ知らなかったが、陸議は彼に、呉に仕えて欲しかったようだ。

 そのために手を尽くしたが赤壁で龐統は蜀に行き、その際、陸議が狙っていた諸葛亮を救い、彼を裏切った。

 

 陸議は龐統の裏切りと、周瑜の遺言とも言うべき諸葛亮暗殺を果たせなかったことを気に病んでいたらしい。


 しかし二人を討ち取る誓いを新たにすることで、闘志は戻って来たが、

 そこに【剄門山けいもんさん】の戦いが起きた。


 龐士元ほうしげんが無益な戦いで、自ら滅んだことで陸議は彼を救えなかったと苦しみ、

 そのことで……ずっと守り続けていた強い心が砕けたのだ。


 司馬懿の間者である飄義ひょうぎがその心の隙を突き、陸議を魏に攫って来たらしい。


 司馬懿とは、何度か戦場で相まみえていたという。

 司馬懿しばいは陸議の才気を気に入り、自分の側に置きたいと考え、飄義ひょうぎを呉に送り込んだのは彼の為だけだったと言っていた。その動向を探り、隙があるならば魏に連れて来る。


 全てを聞いて司馬孚が思ったことは、改めて陸伯言という人間の深さに感動し、これからも一層彼の側で、彼と共に戦いたいということだった。


 親の仇と言ってもいい孫家に、十代の若き当主として帰順を決めたこと、

 自分を幾度も裏切り失望させた龐統ほうとうの死に、心を悼めた情け深さに、特に司馬孚しばふは感じ入ったが、兄の司馬懿とは異なる理由だったので口には出さなかった。

 

 しかし詰まるところは人間としての才気。

 それは兄と、一致している。


叔達しゅくたつ殿、その鞄は……」


 司馬孚が背に背負っている鞄に気付き、陸議が少し首を傾げた。


「今日からここで寝泊まりをしようと思って。

 陸議さまがお目覚めになったので、もう軍医ではなく私がお世話を出来ます」


 珍しく胸を張った司馬孚に、陸議は笑った。


「いけませんよ、叔達殿。ここには寝台もないですし、さすがに床に寝転んだら凍えてしまいます」


「大丈夫です。あとで木箱を三つ持ってくるので、あの辺りに置かせてください。

 毛布を敷けば全然寝台代わりになります!」


 火鉢を整え終わった徐庶が立ち上がり、笑っている。


「それなら木箱を運ぶのを手伝いましょう」

「ありがとうございます!」

「いえ……叔達しゅくたつ殿ありがとうございますというか……徐庶殿、なにも貴方がそんなことをなさらなくても……」


「私は謹慎に入りましたので、暇人だから何でもお手伝いしますよ」


 ふと陸議が徐庶を見た。

 徐庶じょしょは心配そうな顔をした陸議に笑いかけてくる。

 謹慎と言いながら、不思議と徐庶の顔はいつになく明るく見えた。


「なんだか謹慎生活に入ってから徐庶殿は楽しそうに見えます」


 司馬孚もそう思ったらしい。

 声を出して徐庶が笑っている。


「元々魏の軍師など、俺には荷が重かった。こういう役回りの方が確かに気は楽です」


「大丈夫ですよ。徐庶殿の働きは賈詡将軍や郭嘉殿も認めておられました。

 きっと築城が始まればまた新しい任が任されます。

 貴方のような優秀な方を遠征で使わないなんて、勿体ない。

 ここに木箱を置いても構いませんか、伯言はくげんさま」


「いえここは私の部屋でもなんでもないのでそれは全く構わないのですが……叔達しゅくたつ殿、司馬懿殿の弟君を木箱の上で寝させるわけには行きません。では、この寝台を使ってください。木箱には私が眠るので」


「そんな訳にはいきません! 伯言さまは兄上の大事な方です! そんな方を木箱の上に寝かせたら私は二度と司馬家の家に入れてもらえなくなります。

 私はこの歳まで各地をフラフラと放浪しつつ学生生活を謳歌していた身なので、雨凌ぎの荒ら家だろうが酒場の床だろうが果ては何なら草の上でも寝れますのでどうぞ何の心配もなさらないでください。では、木箱を取りに行って参ります」


 笑顔で飛び出して行った司馬孚を、動く方の手を僅かに上げたまま、呆気に取られたように陸議が見送っている。

 

「あの鞄には例の宿題が入っているようですよ。

 しばらくじっくり考え事が出来るような間が無かったので、数日宿題に取り組めそうなのが嬉しいようです」


 徐庶がそう言うと、陸議は小さく笑んだ。


「そうですか……。

 徐庶さん……黄巌こうがんさんは大丈夫でしたか?」


「傷は浅くないようですが、でも目覚めていたから大丈夫です。

 私があまりに黄巌に張り付いていると怪しまれる。

 頃合いを見てまた会いに行きますし、彼にもそう言ってある。

 大丈夫ですよ。陸議どの」


 また少し心配そうな顔をした陸議の元に歩いて来て、徐庶は手の甲で少しだけ陸議の額を撫でるような仕草をした。


「そんな心配そうな顔をしないで」


「……わたしにどれくらいのことが出来るか分かりませんが、謹慎の件は私も次、司馬懿殿に会う時にお願いしてみます」


「俺の事は気にしなくて大丈夫ですよ」


叔達しゅくたつ殿から聞きました。敵に討たれそうになっていた私と叔達殿を、貴方と黄巌こうがんさんが助けてくださったと。だからそのことで私がお願いするのは当たり前のことです」


 徐庶は笑って済ませようとしたが、陸議の琥珀の瞳が真剣に自分を見上げて来ていた。


「徐庶さん……洛陽らくようで、母君と別れる時、私は徐庶さんが無事に戻って来れるよう、微力ながらお助けしますと約束しました」


「いつの間にそんな約束を……」


「母君がわざわざ、私を見送りに出てくださったのです。

 あの方はいつも、住まうところの領主の変化で、平穏な生活を送ることが出来なかったと。

 だから今、洛陽で平穏に暮らされていることは、強い守りのおかげだと仰っていました。

 だから旅立つ兵士を座ったまま見送れないと、そう言って、私などをきちんと外まで見送ってくださったのです。

 戦の最中ならともかく、

 魏軍の謹慎の処置で貴方に助力をしなかったら、私は母君に嘘をついて裏切ったことになります」


 最初は自分の知らないところで交わされた約束を笑っていた徐庶だったが、陸議がそこまで真剣な表情で言うと、目を瞬かせる顔になり頷いた。


「わかった。わかりました。穏便なものでしたら、謹慎を解いて頂けるようにお願いして頂けるのは助かりますので、お願いします」


 徐庶じょしょが頷いたので、陸議が安堵したように息をついている。

 徐庶は癖のついた髪を軽く掻いた。


「まったく……きみは大人しい顔をしているけれど、たまにとても意志が強くなるんだね」


 徐庶が腰に挿してあった剣を外して、窓辺に置いた。


「寝る場所がないので俺もここで寝かせてください。陸議殿。

 俺も放浪生活が長いのでどこでも寝られるのでご心配なく」


 司馬孚しばふが丁度一つ木箱を抱えて、戻って来た所だった。


「……徐庶どのも木箱使いますか?」


 話を聞いた司馬孚が目を瞬かせてそう言うと、徐庶と陸議が顔を見合わせ、吹き出した。


叔達しゅくたつどの」


「あっ! 申し訳ありません、いえ、そういうわけではなく、地べたは本当に凍えてしまうと思ったのでつい……」


「いいんです司馬孚しばふ殿。ありがとうございます。木箱を運びましょう」


「徐庶殿も大陸各地を旅されたと聞きました。ぜひお話を聞かせて下さい。

 私塾でも私は大陸各地で過ごす友人達の話を聞くのが好きなのです。

 魏の領内は色々なところへ行ったことはありますが、他の地はまだ行ったことが無いので」


「大した生活はしてないですが、街の様子などでいいなら」

「とんでもない。私はそういうことが知りたいんです」


 司馬孚が嬉しそうに言って、二人は出て行った。


 一気に賑やかになってしまった部屋に、寝台に寝そべったまま、くすくすと陸議は笑ってから、窓辺にもう一度視線をやった。

 徐庶の置いた、剣が置いてある。


 自分の左腕を見下ろした。

 厚く、布で巻いて、指先まで、不意にも動かせないようにしてある。

 まずは傷を塞がなくてはならないからだ。

 腕の感覚が全くない。

 動くようになるのか、もうならないのか、今はまだ分からない状況だ。


 陸議は陸家の家宝である【雪花剣せっかけん】を陸康りくこうから託されてから、ずっと双剣を使って来た。

 以前甄宓しんふつに言われたことがある。

 双剣は一人で大勢の敵と対峙する必要がある者が持つものなのだと。

 

 確かに陸康に陸家を託され、

 孫家に帰順することを決め、陸家の人間達と不和になってからは、双剣を振り続けて来た。

 

 夢で見た、陸康を見送った姿と、

剄門山けいもんさん】の戦いの前夜、自分の前に現れた龐統ほうとう闇星やみぼしの美しい衣姿が、

 いつの間にか心の中にある。


 その姿を思い出すと、

 どんな絶望的な状況でも、前を向こうと思う意志が生まれて来た。


 

 ……ただ。



 陸議の心に、希望が戻って来た。

 そうだとしても、

 静かな心で自分に何度問いかけても、

 それならば呉に戻るのかと問うと、

 驚くほど「戻りたい」という願いが出てこない。


 花びらのように雪が舞っている。


 希望があることと、

 過去をそのまま取り戻したいかは、

 必ずしも一致しないのだと陸議は思った。


 ここに在るから、

 見ることになった景色がある。


 新しい世界に触れることで、自分が変わり――……


 その変化がもし、希望に繋がったのだとしたら、

 新しい出会いを否定してはいけない。



(剣を振る理由を失ったからか)



 誰よりも強くなり、

 陸家を守り、

 孫家に仕える。

 そうできなければ自分は役立たずなのだという強い想いが、呉で生きた中にはあった。


 魏では、陸議は何も持っていない。

 陸家の当主でもなければ、

 曹丕そうひへの強い忠誠心、

 母国への愛もない。


 何も無い。


 それでも、

 こんな自分に、優しい言葉を掛けてくれる人々がいる。


 甄宓しんふつは呉の将官だったことを知っても、司馬懿の意図を黙認してくれた。

 司馬孚しばふは家族のように心を向けてくれるし、

 徐庶、

 張遼、

 黄巌こうがん

 

 何者でも無い自分に、彼らは誠実に声を掛けてくれた。

 多分それに自分は報いたいのだと思う。


 呉にいた時、龐統を失ったあと感じた絶望は幻などでは無かった。

 

 救われた今も、確かにそこにあったものだ。


 あのままそこにいたら自分は心が本当に砕けて、どこかで誰かに呆気なく討たれていたと思う。


 夢の中のことでも、一度自分の命を本当に投げ捨てた時、

 気づけたことがあった。



(今はただひたすら、振り返らず進みたい)



 そう願える今なら例え隻腕になっても、陸議は希望が持てた。


 片腕になったら、片腕で操れる剣を身につけるまでだ。

 何も惜しくは無い。


 

 雪が降って来た。


 雪を見る、瞳。

 

 元気づかせようとこちらに笑いかけてくる司馬孚の顔が見れる。

 目も見える。

 声も出せるし、

 耳も聞こえる。


 自分が他人のためにやれることはきっと、まだある。


 司馬孚しばふと徐庶の声が聞こえて来た。

 雪が積もりそうだと賈詡将軍が仰っていました、

 

 司馬孚が入って来るなり、笑いながらそう言った。






【終】






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花天月地【第75話 白く舞う】 七海ポルカ @reeeeeen13

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