花天月地【第75話 白く舞う】

七海ポルカ

第1話




 湿った、黴の匂いだけが漂っている。


 遠くで声がして、足音が近づいて来た。

 

 光も射さない暗闇の中で目を閉じていた龐令明ほうれいめいは、ゆっくりと目を開き、緩慢に顔を上げた。

 やがて暗がりの通路から姿を現した男を確認すると、静かにまた目を閉じて顔を伏せる。


「食事は?」

「毒など盛っていないと説明し、同じ皿から食べて見せても、口にしません」

「そうか」


 ここは天水てんすい砦の地下の牢だが、この牢の扉は開いたままだった。

 そして中にも二人見張りがいて、外にも二人いる。

 厳重に監視しているが、龐徳ほうとくの体は何も捕縛されていないし、扉も開いている。

 扉が開いているからといって逃げ出すような馬鹿ではないのは分かっていたが、自殺する恐れはあったため、見張りの意味はそれだけだった。


「餓死でもするつもりか? 龐徳将軍」


 賈詡かくは冷たい声を響かせる。


 二人は涼州戦線で幾度も対峙しているため、互いを見知っていた。

 龐徳は答えない。

 臨洮りんとうの平野で捕まり、この砦に連行され、投獄された後、一言も言葉を発さなくなった。


 単騎で張遼ちょうりょう軍に挑みかかって来て、張遼を斬った。

 賈詡が相手だったら、大将同士で剣など当て合わなかった。

 涼州騎馬隊の最後の誇り、などと勇んで単騎で突っ込んで来るような男、十分に引きつけたあと弓隊で蜂の巣にしてやっただろう。

 曹操などは嫌いそうな結末だが、生憎息子の曹丕の腹心である司馬懿は怜悧な男なので、賈詡がそのようなやり方を取ったところで「そうか」で済ませるだろうと思ったからだ。

 それで一騎打ちを汚したなどと世に悪名を轟かせようと、一向に賈詡は構わなかった。

 そんな汚名、これからどれだけでも雪げるからである。

 

 曹魏のこれからの戦。


 これからの未来――……。


 それを考えれば、いくつの、どんな困難な戦があるか分からないほどで、策謀に長けた自分の力がまだそういった局面で重宝されるという自信がある賈詡は、勝手に自分の人生の最後に華々しく散りたいなどと決めつけて、挑んで来るような男の我が儘に何故付き合ってやらなければならないのかという冷静な思考が働くので、端から付き合ってやる気など全く無かった。



(張遼でなければ)



 この涼州遠征で連れて来た魏軍の武将のうち張遼でさえなければ、これは起きなかったことだ。


 張文遠ちょうぶんえんは、決して甘い男ではない。

 他の涼州騎馬隊を逃がして、単騎で出て来た男の決闘に乗ってやるような所は見せても、そういう決死の相手でさえ容赦なく一撃で仕留めるほどには、厳しい男だ。


 張遼が龐徳の一騎打ちに応じてもさほど賈詡は驚きは無かったが、剣を振らずに一撃で斬られたとなると話は全く異なって来る。


 張遼は元々呂布りょふの部下で、曹操と敵対していた。

 言わば賈詡と同じ降将である。

 呂布が討ち取られた下邳かひの戦いは賈詡も参戦したので、状況はよく分かっている。


 水攻めにあった下邳の戦いで、追い詰められた籠城戦の中、夜陰に乗じて張遼が単騎で打って出て来た。

 包囲された城壁から騎馬のまま、飛び降りて来たのだ。

 出て来る騎馬がいるなら呂布か張遼のどちらかだろうと曹操そうそうが言っていたので、想定された動きであり、配置しておいた兵に弓で攻撃させたのだが、矢の雨の中を射られながら突破して来て、ああいう武将が一番タチが悪い、と額を押さえた賈詡が「岩も落とせますが」と渋々言うと、夏侯惇が「岩で潰れる張遼なんぞ見たくない」と嫌そうに言って、結局深手を負ったまま突撃して来た張遼を一太刀で叩き落とし、捕虜にした。

 

 呂布と貂蝉ちょうせんの遺体の側にいた陳宮ちんきゅうに「張遼を単騎で突っ込ませる無能で冷酷な策はお前の案か?」と夏侯惇が睨みつけて聞いた時、一瞬驚いたような顔をしたので、恐らくあれは張遼の独断だったのだろう。


 陳宮も張遼も答えなかったので結局真相は分からないが、張遼は呂布の死に場所があそこだということを察したのだろう。下邳で死のうとしてることを。

 陳宮にはすでに打つ手が無く、呂布に拉致されたままの貂蝉が側にいた。

 死に場所を定めた呂布と陳宮に、貂蝉は女で、呂布を愛していたわけではないが、彼女も自らの最後はここで迎えるべきと心を決めていた。


 張遼がそこに残っても、出来ることは無かったのだ。


 恐らくあのまま何もしないで死ぬことだけが納得出来ず、

 戦って死にたいと、張遼が出て来た理由はそれだった。


 賈詡かくはその時の状況に応じて、相応しい瞬間に主を変えながら生き延びて来た。

 生き残ることが最大の目的というわけではなかったが、生き残れる状況があるなら躊躇わなかった。

 そして主を変えることに躊躇いはないけれど、決して誰でも良かったわけでは無い。

 

 張繡ちょうしゅうの許にいた時、現れたのが曹操だったからだ。

 曹操が賈詡を殺さなかったのも、恐らくそのことが分かっていたからだろうと思う。


 袁紹えんしょう袁術えんじゅつがそこへいても、賈詡は決して降らなかった。


 自分を重用させる形で時間を稼ぎ、これはと思う人間を待っただろうが、現われない場合は全てを諦め、愚か者に処刑される覚悟くらいはあるのだ。

 そうしたいわけではないけれど、分別はある。


 何かを話した訳ではないのだが、そういえば郭嘉が以前「でも張繡ちょうしゅうの許にいた時、仮に袁紹や袁術などに声を掛けられたとしても、あなたは降らなかったよね?」と言っていたことがある。

 郭嘉がそう言っていたということは、恐らく曹操もそう見たということだ。

 

 張遼は、主を何度も替えて生き残って行くような男ではなかったが、そういう男だと理解した上で、夏侯惇かこうとんが首を取らず、曹操もそれを望み、主君を失っても降ることに賭けた。


 張遼のような男は容易く主は替えないが、もし替えることが出来た場合、忠誠心が劣化はしない。


 呂布りょふの武勇に張遼が惚れていたので、大概の人間は張遼が主を違えることはないと思い込むが、呂布を討ち取ることが出来る相手がいれば、呂布より知勇に秀でた相手ということになる。あとはもう、張遼がその男を気に入るかどうかだ。


『殿以外にはきっとあの人は降らなかったよ。

 ね。文若ぶんじゃく殿』


 碁を打ちながら郭嘉かくかが楽しそうに声を響かせ、

 対面で荀彧が何も言わず碁盤を眺めたまま微笑んでいた。



『だからきっと、そういう意味では殿は張遼の命も救ったんだ』



 張遼は寡黙な男なのでその辺りのことを話したことは無いが、郭嘉の言葉が正しいかはともかくとして、今や張遼は魏軍最高の武将の一人と言われている。

 敵にも味方にもだ。

 降った後起こった【官渡かんとの戦い】にも張遼は参戦し、見事に袁紹の自慢の寄騎よりきを撃破して曹操の期待に応えた。


 

(こいつが張遼と同格とは思えんが)



 賈詡は冷たい瞳で、龐徳を見下ろした。

 いや、評価はしている。

 いい武将だ。

 勇猛で、勤勉。戦場ではいい働きをする。

 天水砦で戦った時も随分手こずらされた。有能な武将だ。


 しかし龐徳は張遼に比べると遥かに狭量だ。情に流されやすく、冷徹でない。

 こういう甘い男が一度主を替えると、二度も三度も自分で理由を付けて替えていく気がした。

 その割に、そういう生き方をすればするほど、恐らく武将としての強度は劣化して行き、龐徳は恐らく、涼州にいる今が最強の時なのだ。


 魏に降り、迷いを抱えるたび、その迷いを数えるように弱くなって行くと賈詡は見ていた。

 だから龐徳を見かけたと聞いても特に助命や魏軍に引き入れることは、司馬懿しばいには提案しなかったのだ。



『自刃をさせるな』



 郭嘉は一度目を覚ましたが今は深く眠りについて、しばらく静養が必要だと軍医も言っていた。


 郭嘉が龐徳を買っているとは、賈詡には思えなかった。

 何故ならあの男の物の見方は、ある意味で賈詡よりも厳しい所があるからだ。

 ひたすら張遼の意図を汲んだのだろう。

 

 張遼はまだ、目覚めていない。

 目覚めるのかすら分からない。

 強靱な肉体と鋼のような精神を持つ男だが、死ぬときは死ぬ。


 賈詡は割り切ることにした。

 実際、まだ若い楽進や李典よりは龐徳は将軍として現時点で有能だ。

 使い物にならなそうな男だったら、今後は楽進がくしん李典りてんの側に付ける形で副官として、あの二人が有能になるまで使って、あとは引退でもさせればいい。


(要するに、この涼州遠征において役立てばいい)


 使わねば確かに損である。


「【烏桓六道うがんりくどう】の話は聞いたと思うが」


 賈詡は牢の中に入り、見張りの二人を退出させた。

 そこに立ち、俯いたままの龐徳を見下ろす。


「我々も涼州の者に仔細を聞き、臨洮りんとうで急に夜襲を仕掛けて来たお前達には目を瞑ることにした。

 我々の今回の目的は涼州に【定軍山ていぐんざん】後方支援の為の大きな拠点を築くことだ。

 軍を引き連れて来たのは、それをお前達が明確に邪魔しに入って来たら相手をすることであって、涼州の山間の村々に火を放ち住民を殺すためじゃない。

 築城に人手が必要であるため近隣の村から動員したいと考えているが、無理にする気もない。きちんと手当を払って働く気のある者達を受け入れるつもりだ。

 涼州の者を動員できれば、その分連れてきた兵を縮小し、他の戦線へ回したり長安に帰したり出来る。

 北方から涼州騎馬隊が退いた。

 後方の憂慮が無くなった今なら、動員に応じて軍の縮小は考える。

 龐徳将軍。貴方には張遼軍を率いて、涼州騎馬隊が北へ戻らぬよう、その監視の為の巡回行軍をして欲しいのだ」


 龐徳が顔をゆっくりと上げた。

 賈詡は頷く。


「張遼将軍はまだ生きておられるが、目覚めておられない。

 軍医の言葉は厳しい見通しだ。

 無論、魏軍全体でなんとか将軍には目覚めて貰わねばとありとあらゆる手は尽くしているが」


「では何故そのようなことを申す」


 龐徳の声に怒りが満ちた。


 涼州に生きる人間には、こういう怒りがある。

 馬超ばちょうもそうだった。

 実のところ賈詡も、幼い頃の記憶ではそうである。

 

 そういう土地なのだと思う。


 土地の抱える運命というものがあるが、この地は魏に陸伝いで、今や三国の干渉を受け続けている。

 そこに住まう者達は、強い怒りを抱えている。


 これは涼州にいる限りは剣にも盾にもなるが、

 他の土地に出ると性質が変わってくるのだ。


 弱さや、隙になる。


 龐徳の周囲にある暗い影、怒り、その奥にある――死の気配のようなものを、賈詡は毛嫌いをした。


 死相のようなものだ。

 こういうものを持っている人間の近くにいると、その悪しき風に巻き込まれることがある。


 やはり好きになれない男だ、と思った時、

 勝手に得体の知れない暗殺集団に一人で喧嘩を売った小僧が、てっきりいつも通り俺は悪くないなどという高圧的な態度で来るに違いないと思いながら部屋に入って行くと、全ての敵を討ち果たしたという満足感からなのか、鶸色ひわいろの目を輝かせて微笑ったのを思い出し、賈詡はこの際私情は押さえることにした。


 郭嘉が龐徳を自刃させず、使えと言ったのだ。

 使ってみる価値はある。



「――それを張文遠ちょうぶんえんが望んだからだ」



 賈詡が後ろ手に組んでそう言うと、龐徳は目を見開き、驚いた顔をした。


「貴方だって分かっているだろう。

 張遼将軍は貴方に対して剣を抜かなかった。

 何者かが涼州騎馬隊を操り、魏軍にぶつけて来たのを知っていて、言葉でも貴方を説得する方法はあった。

 だがその方法を取らず、張遼将軍は貴方の一撃を何もせず受けた。

 自分が倒れても、貴方に自分の軍を任せられるということ、

 そして言葉で説得され降伏しても、貴方が自刃するであろうことが分かったから、説得しなかったのだ」


「だが……何故だ」


 龐徳は混乱している。

 張遼と激しく打ち合えば、勝っても負けても混乱しなかっただろうが、あれほどの武将が容易く自分に斬られたことが分からないのだ。


「本当は貴方の説得は、今回我が軍総大将である司馬仲達しばちゅうたつが行うつもりだったんだが、一度そう決まり、よく考えてから私に変えてもらった。

 という、この賈文和かぶんかもある人間の代理だ。

 そいつは貴方を説得して自刃を止めないと、張遼将軍の行動が無駄になると忠告をして来た。

 張遼将軍がかつて呂奉先りょほうせんの許にいたことは貴方も知っているだろう。

 下邳かひの戦いの最後、張遼も単騎で打って出て来た。

 逃げるためでも無く、呂布りょふのためでも無く、自分自身の死に場所を自分で選びたかったからだ」


 龐徳の怒りの目に、迷いが出た。


 郭嘉などにこんな心の弱みを見せれば、あっという間に言葉巧みに相手を籠絡するのだろうが、生憎賈詡は、自らの言葉で語るのはあまり得意ではない。

 

(全く自分は優雅に眠って、こういうやりにくい仕事だけ俺に押しつけやがって)


 ますます腹の立つ坊やである。


「張遼には貴方の状況や、心境が理解出来た。

 同時に優れた武将の死に場所がここだという直感も、外れることがあることをあの人は知っていた。かつての自分の姿と重なったから、貴方をどうにかしたいと思ったんだろう。

 まあ俺なら槍で落馬させ叩き落とすくらいにしてくれよと思うんだが。


 ……張遼将軍は捕縛されたあと降伏したが、貴方は自分より強情だと見たのだろうな。

 美しく言えば、死を望んだ貴方の思いに敬意を払ったんだ。


 容易く触れようとしなかった。

 貴方の決断や、涼州への想いにな。


 手を出さず斬られた理由はそれだと、張遼の意図を読んだ同僚に説得を頼まれて俺がここにいて、こうして貴方に頼んでいる。

 

 今後魏軍が涼州をどうするかはまだ定まっていない。

 だがそれはしょくも同じだろう。

 劉備りゅうびが涼州を踏みにじりながら北伐を行い、南へ行った涼州騎馬隊がそれに絶望するかもしれん。少しの先の未来も、全く決まっていない。自ら命を絶つのは決断が早いと思わないか」



「私の希望とはなんだ?」



「あんたのことは知らんが、あんたの戦う姿は、俺は天水てんすい砦で相対した時に見て来た。

 希望というのなら、馬騰ばとう一族が皆殺しにされたときにとっくに失っているだろう。

 希望なんぞ、

 無くたって、詰まるところ生きている限り生きていくのが人間だ。

 あんたを救った、張文遠ちょうぶんえんの想いを餓死で無駄にするような男か、と言っているんだ!」



 龐徳が何かを言おうとして唇が震えたが、声にはならなかった。


 賈詡は息をつく。


「とにかく食事は取ってくれ。

 張遼将軍が目覚めたら話をされるといい。

 その約束が出来るなら、こっちだって俺のような者があんたを説得に来てない。

 だが張遼は死ぬかもしれん。

 時代は、今も動き続けてる。

 魏軍は張遼を失っても立ち尽くしてるわけにはいかん。

 だから貴方に、張遼軍を率いて欲しいのだ。

 彼が目覚めるまでな。

 その後は張遼やあんたや、曹丕そうひ殿下がお決めになることだ。


 優秀な武将には、生きてる限り働いてもらう。

 一時の無駄もなく。

 貴方が張遼軍を率いてくれれば、南へ行った涼州騎馬隊への牽制になる。

 

 ああ、もう一つ伝えておく。

 南へ涼州騎馬隊を行くよう誘導したのは、馬超ばちょうだ」


「なに」

 龐徳が思わず顔を上げた。


「馬超が魏軍の涼州侵攻を聞き、故郷を忘れられず単騎で乗り込んで来ていた。

 同じく【烏桓六道うがんりくどう】の動きを察して軍を引かせ、そのまま成都に連れて行ったのは奴だ。

 馬超に率いられた涼州騎馬隊は最強だ。

 相対出来るのは張遼軍しかいない。

 

 だから貴方に率いてもらいたいのだ。


 馬超と戦うのは恐ろしいか? 龐徳ほうとく将軍。

 それとも恐ろしいのは、機を逃した自分の不運か。

 馬超ばちょうに合流した涼州騎馬隊に自分も共に参戦し、曹魏と戦いたいか?」



 ……その時、龐徳の表情に不思議な感情が出たのを賈詡は見逃さなかった。



 馬超と涼州騎馬隊が合流したと聞いた時、

 喜びや、安堵や、そこに自分もいたいという感情が見られなかった。



(……なるほどな)


 

 張遼は何もせず斬られたわけではない。

 こういう、斬り方もあるのだ。


 張遼の入れた一撃が、龐徳の身には染みている。


 郭奉孝かくほうこうの顔が過る。

 思わず笑みを浮かべそうになり、後ろ手に組んだ手に力を込め唇を引き結び、堪えた。


 人間の絶望と、希望。


 その人間が望む欲、

 望まない習性。

 与えるべき言葉と与えるべきでは無い言葉。

 さすがに、よくそういうものを感じ取る。


 司馬懿しばい江陵こうりょうに郭嘉を送り込みたいと言っていた。


 しょくが所有権を主張する、混沌とする場所。

 あそこには人間の私欲が渦巻く。

 確かに郭嘉なら、何を感じ取って戻って来るのか楽しみだ。


「どうしても自刃したいのなら、強くは止めん。

 だが今はせぬと約束して欲しい。龐徳ほうとく将軍。

 今の話も、頼んだだけだ。

 貴方が張遼軍を率いて涼州騎馬隊と相対するなど、故郷と同胞に対して恥ずかしくて出来ぬというのなら無理に引きずり出して、貴方を貶める気は無い。


 貴方は張遼将軍に見込まれた方だ。

 魏軍はそういう人間には、敬意は払う。


 しかし自ら果てるにしても、この状況が落ち着いてからにしていただきたい。

 この遠征が終わり、一応の形で帰還が叶ったら――それでも貴方が自刃を望むなら、それは私と、司馬懿殿から曹丕殿下に必ずお願い申し上げる。

 

 約束して頂けるのなら牢の監視役も減らす。

 貴方の静寂をこれ以上邪魔する気は無い」


 少しの間、龐徳は押し黙ったがやがて頷いた。


「……。自刃は今はせぬとお約束する。

 出陣の件は、しばし考えさせて頂きたい。

 出来れば張遼殿が目覚めて、ご自分で説明があるまで待ちたいが、そうも行かぬなら数日でいい。

 あの時、私は真実の心で張遼殿を殺めようと決意していた。

 心を落ち着けねばならん」


「分かりました。

 しかしあの時は貴方は涼州騎馬隊の将で、張遼将軍は魏軍の将だったのだから、本気で殺めようとしていたことを気に病まれることは全くない。

 張遼ちょうりょう軍は魏軍でも精強で名高い。

 それは張遼将軍の意志と覇気が、彼らに浸透しているからだ。

 彼らにとって『張文遠ちょうぶんえんが望んだこと』という言葉は、何にも勝る」


 龐徳ほうとくは小さく頷いた。


「一時間後、こちらに食事を持って来させる。

 扉は開けておく。見張りは二人いるが、これより先は監視というより貴方が不自由ないよう世話をする役だ。今日明日のうちに、貴方の部屋も砦に用意させる。

 何か必要なことがあれば言ってくれて構わん。

 彼らを伴ってくれれば砦の周囲を歩くなどしても良い。

 兵達にはよく言い聞かせておく」



「賈詡将軍」

「なにかな」



「……貴方は張遼殿の意図を汲んだ、誰かの代理と言っておられたが。

 その代理とはどなただ?」


 賈詡はその問いは意外だったので、少し笑って顎をしゃくった。

 こいつも案外、冷静じゃないか。

 魏軍の考えを聞いたことで心に落ち着きが戻って来たのかもしれない。

 いい傾向だ。


「そうだな……」


 龐徳が暗い顔を少しだけ上げた。


「貴方は知らぬだろうが、郭嘉という。

 貴方がこの先、魏軍の者になろうがなるまいが、覚えていて損のない名だぞ。

 龐徳将軍」



 賈詡は一礼すると、見張りに「頼むぞ」と声を掛けて去って行った。



 龐徳は手を組んだまま、動かなかった。

 水の滴る、音だけがする。

 そういえば雨は止んだのだろうか?


 実りの秋が去ると、

 雨雲がやって来る。

 涼州の土を、洗うような大雨がしばし続き、


 ――やがて、雨が晴れると気温が下がる。


 粉雪が舞い始める。


 ……雪が降り始めるのだ。




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