【街】 7-④
おおい、おおい、と遠くでする呼び声がノニの意識を引きずるように浮上させた。
見覚えのない白い天井とふかふかと大きいベッド、腕から伸びる点滴の管と口元についた酸素吸入マスク、どれもこれも見慣れないものの、隣でひっくり返って寝ている大きな白い猫のような姿の獣だけは見慣れた姿だ。
どこからどう見ても大きな病室なのだが、壁に不思議な文様が浮かび、部屋のあちこちに木が生い茂っているように見えて、ノニは眉をしかめてゆっくりと起き上がり、周りを見回した。部屋の隅には顔のある岩があり何かをずっと話していて、ノニの耳には「おおいおおい」と聞こえるのだが、何か意味があるのかもしれない。
「んあ? 起きたのか。」
セジュラがごろりと寝返りを打って座り直してノニを見上げたので、ノニはセジュラに視線を移した。いつもの真っ白の体がぐるりと歪んで外側の輪郭だけが見え、中身が薄暗い空洞に見える。ノニが少し思案してから片手で左目を覆うと、壁の文様も生い茂った木々も、部屋の隅の岩もセジュラの空洞も全て見えなくなった。体の治療は済んでいるようで左目を触った手の平の感覚に違和感はなく、普通の治療ではこうはいかないだろうと推測して、ノニは目を閉じた。
「………ここはどこだ? ロク先生を呼んでくれ。」
酷く掠れた声しか出ず、ノニは喉を押さえてケホケホと咳き込む。
「センムが魔狩りに頼んで手配した系列の病院だ。お前は2日寝てた。ロク先生は治療が終わって自分の病院へ帰ったぜ。」
ノニは長いため息を吐いてから目を開いてセジュラを見て、見えるものに嫌気が差してまた片手で左目を塞いだ。
「悪いが、お前の空洞の中身が見えてる。あと壁に何か描かれてあるし、部屋の隅には喋る岩がいるんだ。」
セジュラは「イヤーン、えっち~」とふざけて言いながら、またベッドの上に腹を見せて寝そべり前脚をくるくると動かした。
「おい、思念を飛ばせばいいだろう。何でチャットで送る必要があるんだ。」
ノニがそう言うとセジュラはクッと笑う。基本的にノニとセジュラへの連絡手段は同業者やそれに近い者がセジュラに思念を飛ばして連絡してくるものの、ノニの母と兄はそれが出来ず、セジュラには通信用のチャットシステムを前脚のところに入れてある。一般の連絡用ではないものの魔性が機械的なシステムを扱うとは思われにくく、セジュラの行動を誰かに見咎められたことは今までに一度もない。
「ロク先生はお前の治療にすげー力使って、『寝る』っつって帰ったンだよ。いわゆる電源オフだ。受付のヤツに連絡しとかねーとなァ。」
セジュラの言葉にぐう、と歯を噛み締めて黙ったノニは、眉を寄せたままセジュラにいーっと歯を見せてまたベッドに横になった。
「『奥の目が開き切る』ってこういうことなのか。いつも以上におかしなものが見えるし、聞こえる。………人間に会ったらどうなるんだろうね。」
「見えるのは異界なんだから、人間はそんな変わンねーよ。………ったく、添い寝してやる。」
「やめろ、おい、狭い。」
ぎゅうぎゅうと大きさを変えてノニにくっついて来るセジュラに、ノニは目を閉じて嫌そうな顔で抗議する。犬とは違う感触のふっかりとした細い毛の柔らかい皮膚と毛皮に頬が埋まり、ノニは頬を膨らませるような不服な顔をして押し黙った。
そのままうとうととしながら時間が経ち、病室の前でピッと電子音がしたかと思うと引き戸が開いて、アクタ院長が眠そうというよりは不機嫌そうな顔で入って来た。その後ろから何故かイリセが顔を覗かせて入って来る。パジャマ姿なところを見ると、彼も恐らくは別の病室で体の検査を受けたりしているのだろう。
イリセは特に何も変わりなく見えるのだが、アクタ院長の方は尻尾が何本か生えているのが見えて、ノニはぎゅうっと眉を寄せた。
「…………たぶん、左目が開き切ったような感じが。ロク先生の後ろに尻尾がたくさん見えてます。」
「見せろ。」
ノニの言葉に即反応してセジュラを大きな尻で容赦なく踏んづけてベッドに腰を下ろし、アクタ院長はポケットから取り出したレンズでノニの左目を覗き込んだ。セジュラがじたばたと暴れながら小型犬の大きさになってアクタ院長の尻の下から抜け出して、病室の真ん中に置いてあるソファの上にちょんと飛び乗った。イリセも心配そうな顔をしながら、セジュラの向かいのソファに座るのが見える。
「開き切ってはいないがギリギリだな。影鰐はともかく、喰らった何らかの呪詛が歯に染みついていた可能性はある。」
「元のように閉じますか? 見えるのはともかく、部屋の隅で喋っている岩は不愉快で何とかしたいんですが。」
アクタ院長はしかめっ面で「んん」と声を上げ、首を振った。
「呪詛の元が分からんことにはな………応急措置としては他人に少し移して症状を抑えるしかない。幽霊を見たい人間を募集するか、大多数に散らして影響を少なくするか。」
ノニは一瞬半眼になって、それから苦笑した。分かりにくかったものの冗談だと分かったからだ。
「ナツメの奴が視認を上げたいと言っていたので、連絡してみます。あいつなら家業ですし、家の中にも目が欲しいのが何人かいると思いますから。…………会って話すのはめちゃくちゃ面倒ですが。」
「ああ、うん。あの小僧はお前に対しては色々ややこしいからな。だが適任だ。」
アクタ院長は立ち上がって、ふあ、と大きなあくびをした。そしてイリセの方を振り返る。
「君の方はどうだ? そろそろ奥の目が閉じる頃だと思うが。」
イリセはアクタ院長の方へ顔を上げて「はい」と返事をした。
「座敷童も、完全に見えなくなりました。気配は妙に感じる時はあるんですが………少し寂しさもあります。」
「うん、まあいずれ社長の椅子に座れば、祀ることにはなるだろうからな。その時はもうちょっと緩やかに奥の目が開くはずだから、また見えるようにはなるだろう。」
そう言ってからアクタ院長はノニに視線を戻して、鼻から息を吐き出して呆れたような顔になった。
「仕事熱心なのは結構だが少しは懲りろ。あとで薬を届けさせるから、ナツメが来たら使いたまえ。目に点眼して薬と一緒に出て来た涙を飲み込ませるんだ。」
「えっ、気持ち悪………」
ノニが思わず呟くとアクタ院長は「だから懲りろと言っただろう」と答え、前髪の生え際を人差し指で掻いた。
「呪いの類いは可能なものなら血や体液で移すのが一番確実だからな。影鰐の歯という経路を考えれば血だろうが、また目から血を流すのはきついだろう。痛いし。」
ノニは目を逸らして視線を下に落とし、顔をしかめてから「分かりました」と返事をする。小さく笑ってアクタ院長が出て行くと、ノニはソファに座っているイリセの方へ視線をやった。
「ありがとう、わたしを無事に連れ帰ってくれて。この部屋も特別なところだろう?」
「僕は頼んだけど手配したのはマカリだよ。僕こそありがとう。ノニくんのおかげで僕はここに無事にいられる。……本当に、ありがとう。」
穏やかな口調でそう言ってイリセはソファから立ち上がり、ポットや冷蔵庫が置いてあるところへ近付いて冷蔵庫から水を取り出した。
「喉渇いてない? お茶も淹れるから待ってて。」
コップに水とストローを入れてノニの元へ運んで来て渡してから、イリセはポットの方へ戻ってそちらにも水を入れ、スイッチを入れた。
「お茶っ葉は色々あるんだけど、ノニくんも鞄の中に持ってたよね? そっちの方がいい?」
酸素吸入マスクを外してストローで少しずつ水を飲んでから、ノニは「豆のお茶はない?」と尋ねた。ティーバッグの並んだカゴの中をぺらぺらとめくり、イリセは1つ取り出して「黒豆茶でいい?」とノニの方を振り返った。ノニが頷くと棚からマグを取り出してお茶を作り始める。その様子が左目に映る木々のせいで森の中でお茶を作っているように見えて、ノニがぼんやりと眺めてゆっくりと瞬きをすると、また意識がふわりと宙に浮く感覚があった。
2日も寝ていたらしいのに、傷は塞がったとはいえまだ体が治療のための休息を必要としているのか、それとも目が見え過ぎる影響なのか、どちらとも言えないが、ふとした瞬間に意識が落ちそうになる。
あの異界でノニの意識が落ちた後のこともきちんと聞いておかなくてはと考えながら、眠気を覚ますためにベッドから降りようとして腕の点滴の管に繋がれているのを思い出した。意識が戻らなかったがゆえの水分と栄養補給剤だろう。自分の腰元をよく見ると、昔よりもかなり薄型になって違和感はほとんどないとはいえ、おむつのようなものも履かされている。恐らくノニの体のことを気遣って、アクタ院長は恐らく自分のスタッフも連れて来てくれていたのだろうし、この部屋にもしっかりとした結界を張ってくれているようだ。
しばらくしてイリセが移動式のベッド用のテーブルに黒豆茶を運んでくれ、ノニは礼を言って熱いカップにふーふーと息を吹きかけながら唇をつけた。そこへ、ポーンと電子音が鳴る。
「あ、届けてくれるって言ってた薬かな? 僕、取って来るね。」
引き戸を開けて出て行くイリセの背中を見て、ノニはなぜ彼が自分の世話を焼いているのだろうかと不思議に思う。部屋が特別なだけに、この部屋に入れる人間も限られてはいるのだろうが、入院患者の世話をするロボットも最近はずいぶん発達しているし、お茶を淹れるくらいはやってのけるロボットもいるだろう。もう一口、カップに唇をつけてお茶を飲んでテーブルに置いたところで、またノニの意識は揺らいだ。
電子音と共に引き戸が開く音が遠く微かに聞こえて、何度か瞬きをすると、イリセがベッドの横に戻って来ていた。途切れ途切れの意識の隙間からイリセを見上げて「眠い?」と聞かれてこくんと頷く。
イリセがノニの背を腕で支えてベッドに横たえるのが分かり、ノニはどうにか礼を言った、と思う。心配そうに顔を覗き込むイリセの向こう側の天井に、びっしりと文様が浮かび木々がどんどん生い茂って深い森になっていくのを見て、ノニは「ああ、これは気が狂うな」と呟いた。
眉をしかめて下げた表情でブルーグリーンの瞳を少し細め、心配そうに見つめて来るイリセは、一度目をぎゅうっと閉じてからふわりと視線をどこかへ外した。小さく、かさかさと何かの音がする。
「ノニくん。」
自分を呼ぶ声に何とか反応しようと視線を彷徨わせて、ノニは「うん…」と返事をした。
「………僕が貰うよ。」
言葉の意味が分からずに考えようとしてノニの意識が少しだけ覚醒したと同時、左目の瞼をそっと指先で持ち上げられ冷たい水滴が降って来た。目の奥に走る鋭い痛みと湧き上がる熱が、ノニの目の中を一周して目尻と目頭から零れ落ちるのが分かった。イリセが顔を近付けてノニの頬と鼻に触れるか触れないかのような口付けをするように、それを唇で吸い取って飲み込む。
「待っ………!」
意識が一気に覚醒したノニが悲鳴のように声を上げると、イリセはノニから顔を離した。
「なん…………どうして」
掠れた声で尋ねるノニに、イリセは微笑むような表情を浮かべて何度か瞬きをし、視線を下に落としてノニから目を逸らした。
「僕のせいで受けた呪いだから。それに、違う世界が………もっと広い世界が見えるようになるんだ。イリセの次期社長としては、そう悪いことじゃないさ。」
そう言ってからふっと自嘲気味に笑って、イリセは視線を上げる。
「あとは、そうだな。………僕はたぶん、きみにとって少し特別な存在になりたかったのかな。」
静かにそう言ってから、イリセはしばらくして「ごめんね」と呟いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます