【街】 7-③

 カウンターのある場所から広場の騒ぎのある方へ進んで行くと、周りから「人間だ」「ヒトが姿も隠さずここに?」と小さなざわめきが聞こえて来る。普段ノニの場合はイリセのように被らなくても近くにいるだけで誤魔化せるのだが、セジュラと距離を取ったことによって正体を隠せなくなったのだ。

「影鰐」という名は昔話に出て来る名だ。地方にもよるもののかつて漁師達が「鰐」と呼んでいた生物は今の時代、別の呼び名で呼ばれている。「大きな鱶」の姿をしていたと影鰐を目撃した者は伝える。鱶という名も、海に近い地域でなければあまり馴染みはないのかもしれない。

 ともかく騒ぎの中心に向かって進むノニに対して魔性や怪異は振り返り、そして道を空けた。騒動の発端の原因がノニにあるかのような視線と囁く声。人間の社会に怪異が出れば異端だが、世界をひっくり返して、怪異の社会に人間が出ればそれも異端なのだ。現世で幽霊や魔性を大半の人が見ない、もしくは見ないフリをしているが、怪異の世界もそれは同じで、人間の世界など信じていない者も大多数いるという。

 真っ直ぐに開いた道の奥に、ゆらゆらと揺れる提灯の灯りに照らされて鮫の頭をした大きなヒト型の異形が立っている。姿形自体がはっきりせずに輪郭すらぼんやりとしているが、感情を全く感じさせない闇い目と、温度の低い肌の色が時折実体としてノニの目に映る。対峙するとさすがに本能的な恐怖を感じるなとノニは頭の隅で考えた。それはノニに気付いたのかこちらを見て、「おまえか」と何とか聞き取れるくらいの低くくぐもった声で呟いた。

「わしの影を横取りしたそうだな。返せ。」

「あれはわたしの依頼人からの盗品だ。にも関わらず、わたしは正当に店主の言い値であれをきみより先に買い上げた。諦めてくれないか。」

「出来ん。」

 少し会話を交わしただけで交渉の余地が一切なくなったことにノニは苦笑する。周囲から「盗品?」「あれだよ御城のお坊ちゃんの…」という声が微かに聞こえ、ノニはふうっと息を吐き出した。

「ずいぶん勝手な御仁だな。ではきみが現世で凪の海で漁師を喰らうのと同じく、わたしもこの異界できみを間引かせて貰うが、構わないな。」

 ノニが手に持った朱色塗りの棒を振ると、ガションッと音と立てて下にハンドルが出て、長く伸びるように鉄色のリムが上下に伸びた。リムの両先端にキラキラと光るものがすうっと伸びて滑車を形作り、そこから細く伸びる光が繋がって弦になる。

「朱塗りの弓だ! おい離れろ、あいつ例の怪異狩りだぞ!」

「消される! 消される!」

 弓じゃないアーチェリーだ、とノニが半眼で思っている間に、ノニと影鰐の周辺から蜘蛛の子を散らすように何者もが離れ、あれだけ賑わっていた広場がシンと静まり返る。だが興味はあるのか、遠巻きに輪を作って魔性達はこちらを眺めていた。

 グリップの下から白銀色の棒を取り出して振ると、そのままパシンッと音を立ててキラキラと粒子状の矢が出現する。競技ではないのでスタビライザーやスコープはないが、「戦闘において矢を放って相手に突き刺す」という攻撃力の点ではノニの技術は高いと自負している。

 ノニが遠距離の武器を出したからか、そもそもヒト型に化けているだけで身体能力が追いついていないのか、影鰐は動かない。ノニは矢をつがえて一気に弦を引いて一発目の矢を放った。あの巨体では矢の飛ぶスピードを避けられるわけがないとノニは踏んでいたものの、影鰐ががぱっと口を開けてギザギザの並んだ二枚歯を見せたかと思うと、飛んでいたはずの矢がひゅっと消失した。

「ぐふっ、ぐふっ」

 笑い声なのか何なのかよく分からない声を上げる様子を見ると、どういう手を使ったかは分からなかったものの、意図して矢を消したということだろう。舌打ちをしてもう一本矢を作ってつがえたところで、影鰐がゆらりと近付いて来た。動きは遅いので捕らえられることはないだろうと思いつつも、ノニからずいぶん遠いところで立ち止まってまたがぱっと口を大きく開けたのを見て、得体の知れない恐怖と嫌な予感が頭を過ぎり、ノニは後ろへ跳び退く。

 影鰐が勢い良く口を閉じた瞬間、ノニの黒いジャージの膝に亀裂が入って裂け、脚に傷が入って血が飛び散った。

「いっ……!?」

 何をされたか一瞬分からずに、ノニは後方に着地してからもう一度後ろに跳んで距離を取る。影鰐を睨みつけてから自分の傷口を確認し、そこで足下から伸びる自分の影に気が付いた。

 影鰐は凪の海で海に映った影を喰らう怪異だ。ノニはそれを十分理解していたものの、提灯の灯りで揺らいで人間の目では視認出来ない薄い影が時々出現することを失念していた。矢も同じように、いくつかある影の一つを喰らえば実体ごと喰らうことが出来るのだろう。

 動きを見ている限り影鰐は身体能力は低く動きも遅いため、近付いて矢で殴ればダメージを与えられそうなのだが、ノニが不用意に近付けば影ごと丸呑みにされる可能性がある。

「怪異狩りとは言っても所詮人間か。仕方ない、御城のお坊ちゃんの影は諦めてやろう。………おまえの影が喰えるならそれで構わんからな。」

 ノニは少しずつ後ろに下がるものの怪我を負った脚が思うようにしっかりと動かず、徐々に距離を詰められていく。逃げようにも、影が影響しない範囲で横をすり抜けられるかが分からず、舌打ちを飲み込んで周りに目を走らせる。

 影鰐から逃れるには、海面に何かを乗せて自分の影が水に映らないようにするというのが漁師に伝わる伝承だ。そして海に影が映らなくなる夜や曇りになれば影鰐は去って行く。影を隠す方法を考えるものの、これだけ広範囲の光源がある中で自分の影を覆えるものに思い当たらない。

 また影鰐が止まり、ゆっくりと口を開けた。

 後退したノニのかかとにがつっとテーブルか何かが当たって、間に合わないことを悟って息を呑むと、左の頬から目元の肉を鋭い四枚の歯がザリザリとえぐって削いでいき、最後に下歯が瞼に引っかかって裂けたのが分かった。

「っぐ………!」

 視力はかろうじて残ったものの瞼から溢れる血が目を覆って視界が塞がれ、ノニは歯を食い縛ってもう一度矢をつがえた。数秒経ってから酷い痛みがずぐ、ずぐ、とノニの左目を突く。意識して深く息を吸い込んで止め、右目で狙いを定めて弦を力いっぱい引いた。

 その瞬間、真っ白な巨躯が上から降って来て影鰐の上に着地してから、ひらりとノニの目の前に降り立った。

「ノニくん!」

 白い獣の背の上からイリセが飛び降り、眉を寄せて下げてぼろぼろと泣きながらノニの手を握った。

「仕事の範囲は間違えない、かァ。ククッ、アッハッハッハッ!」

「な、んで、もどって来た………」

 セジュラはノニを振り返って目を細め、酷く楽しげに笑う。

「仕事しろって言っただろ? ご依頼主サマの言うことは聞かなくちゃなァ。」

 ククッと笑ってセジュラはノニの顔を見てすうっと蒼い瞳を獰猛な獣のそれに変え、前方の影鰐に視線を戻す。

「………それに、後生大事に育ててる獲物を勝手に味見されちゃあなァ、いくら温厚なオレでもちょっと怒っちまうわ。」

 とん、と地面に響いた音に視線を下げると、ノニの傍に白い魔骨製の鞘が立っている。精巧なガシャドクロが彫り込まれたそれを見てノニは眉を寄せ、血まみれの視界をゆっくりと上げた。

 足下は白い毛皮製のブーツに見える。そこから革製の黒いパンツに覆われた長い足を上に辿ると、腰元まで伸びた銀糸の髪がひらひらと揺らめいている。それを追って視線を上げると背に座敷童をくっつけたまま、頭に生えた大きなふかふかした獣の耳に先ほど買ってやった耳飾りの金具が後ろからチラチラと光るのが見えた。

「お前はヒト型は嫌いだろう。それなのにそんなに立派な刀なんか買い与えて貰ったのか、セジュラ。」

「何言ってんだ、これは煙管だぜ。ちょっと刀に化けただけだ。」

 セジュラの答えにはあ、とため息を吐いてノニは「任せる」と呟く。

 座敷童は来た時からその背に乗ったままで、セジュラの肩上で着物の袖を裂いて銀糸の髪をてきぱきと結ってまとめた後、ひょいと地面に降りてノニの顔をぺたぺたと触る。治療というわけではないものの痛みが少し和らぎ、ノニは「ありがとう」と座敷童に微笑みかけた。

 髪を揺らしながらゆっくりと歩いて影鰐に近付くセジュラの背を見ながら、ノニはイリセに話しかける。

「イリセ………何を対価にあんな高価なものを買ったんだ。」

 傷と痛みのせいで思ったより低い咎めるような声音になってしまったものの、イリセは呆気にとられた顔で見ていたヒト型になったセジュラから視線をノニの方へ移して、「僕が持ってるもの」とあっさりと答えた。ノニが怪訝な顔をするとイリセは首を傾げる。

「女の店主さんでね。アイドルに憧れてるって言うから、経営してる芸能事務所への所属の約束と、あと僕が持ってるネット番組の主題歌作って歌わせてあげるって言ったら大喜びでくれた。実体はあって化けられるらしいから大丈夫だって。」

 ノニはぽかんと口を開いて呆れたものの、すぐに可笑しくなって思わずふっと笑ってしまった。この短時間で異界での取引方法を覚えたビジネスセンスに脱帽する。

 前方に目をやると、セジュラが上を向いてふうっと息を吐いた。「まずい」と呟いてイリセを連れて先ほど躓いた大きなテーブルの下へ潜り込むと、提灯を吊していた縄が吐息で起こった強風で踊り狂い、提灯がいくつか地面に落ちてくる。ノニがテーブルから見上げると消えている提灯もある。一瞬でセジュラが何をしようとしたか気付いたノニは、テーブルから抜け出て天に向かって矢をつがえた。縄が折り重なっている部分を狙って射貫くと、そこから提灯を吊った縄が弾けるようにして千切れ、広場の上から周囲の縄に引っ張られるようにして四方に飛び、提灯が観戦している者達の上に降り注ぐ。

「うわっ」

「おい水出せる奴いないか!?」

 地面へ次々と落ちて燃え上がる提灯はちらちらと影を揺らすものの、やがてほとんど消火されて広場は影が落ちないほど真っ暗になり、大通りの方に吊ってある提灯は、光源として影鰐の背から当たる形になり、セジュラの影は色濃くノニ達がいる背の方へ伸びていた。

 躊躇わずに刀を鞘から抜いて影鰐に飛びかかったセジュラは、型も何もなく真っ直ぐに鮫の頭に刃を振り下ろし一刀両断しようとする。慌てて避けた影鰐はやはり身体能力が低いのか地面に倒れ伏し、セジュラがそれを容赦なく蹴り上げた。

「ヒト型に化ける薬なんか飲んでなきゃ、空を泳いで逃げ帰れたのになァ。まあアイツの眼球を残しておいたのは賢かったぜ。あれはオレの好物だからな。」

 鮫の頭の先を大きな手で掴みながら、口を開けないように地面に叩きつけてメリメリと上から押さえつけ、セジュラはククッと笑った。ノニはそれを見て、やっぱり刀なんか使わないじゃないかと半眼になる。

「ノニどうする、狩っとくかァ、コレ?」

 影鰐の頭の上に乗ってしゃがみ込み、セジュラが顔を上げてノニを見ながら軽い調子で言うと、久々に見たヒト型の顔が無事な方の右目で良く見えた。太い眉にノニと同じ少しつり上がった目元、口は少し大きいとよく言われている。整ってはいるものの性格はともかくお世辞にも人懐こそうとは言えないような顔立ちなのだが、楽しそうに目を細めてノニの指示を仰ぐ様子を見て、ノニの母のように「可愛い」と感じるのか、兄のように「怖い」と感じるのかは人それぞれ違う。

「わたしは負けてこのざまだ、強者の決定権はない。好きにしてくれ。」

 ノニが返事をするとセジュラは「えー」と面倒そうに言って、影鰐を見下ろした。弱肉強食は勝者の特権だ。負けたノニが決めていいことではない。ふらふらとした足取りでセジュラと影鰐の元へ向かい、ノニも下敷きにされている影鰐を見下ろす。

「……きみは、影ではなく影ごと人間そのものを喰らう怪異だろう。影だけ喰ったところで……人間が天ぷらの衣だけ食べるようなものじゃないか。何故そこまでこだわる?」

「……もうこの国の人間は、海面に影が映るような小さな船では漁に出ない。鳥でも腹は膨れるが………たまにヒトの味は喰らいたい。」

 低いごそごそとした声でそう言う影鰐に、ノニはアーチェリーをまた元の朱色塗りの棒に戻しながら眉をしかめて息を吐いた。

「漁師なんかいつまでも狙うからだ。観光船や遊覧船から身を乗り出す連中なら手軽に喰えるだろう。試してみろ。」

 ノニが言った言葉にイリセがぎょっとしたように「えっ」と声を上げる。

「え……っと、ノニくんは人間が食べられるのは……その、いいの?」

 イリセの言葉の意味を少し考えて、ノニは「ああ」と返事をしてから、折りたたみ終わって棒に戻ったアーチェリーのグリップを握り直した。

「お前だって他の生命を頂くだろう。動物だけじゃなく植物も含めて。悪戯に命を奪うんじゃなく生きるために人間を喰う連中をどうして責められる?」

「で、でも今、鳥でも腹は膨れるって……」

「……小麦粉しか食べられない状況が続いて、たまに米を食べたいと思ったことないのか? 食の贅沢は人間しか求めてはいけないとでも?」

 目を少し彷徨わせてから、イリセは「ああ……」とため息とも相づちともとれない微かな声を吐き出して、影鰐を見る。セジュラは影鰐の上でいつもの犬のような姿に戻ってからトンと音を立ててノニの傍に降りると、体をすり寄せて背を鼻先で押した。

「ほら、とっとと帰ってロク先生のとこ行くぞ。いつまで血ィだらだら流してやがる。乗れ。」

「いいのか? ずいぶん気前がいいな。」

 ノニがセジュラを振り返ると、ぐらりと視界が揺れた。「うえ」と口元を押さえながらセジュラの背に昇ってまたがると、イリセもそれに続いてノニの後ろ側に乗ってノニの背を支え、最後に座敷童がのそのそと昇って来てノニの前で抱きつくように前からノニを支えた。少し早足で進み始めたセジュラの背の揺れ方が酷く不愉快で、ノニが顔をしかめて目を閉じるとそのまま意識が途切れた。

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