【街】 4-④

「栄養剤は食後。目薬は寝る前。成長薬は気が向いた時におやつ代わりにだとよォ。でもこれあんま美味くはねえやつだ。」

 紙袋から出してテーブルに並べた薬剤を、アライグマのような姿になったセジュラが、テーブルの上で中に入っていた紙を読み上げながら前足で指す。イリセがセジュラを向かい合って説明を聞き、栄養剤だという粉薬を手に取ってノニを振り返って「カップ使ってもいい?」と聞いて来た。ノニがスーツケースの中身を整頓しながら「はいどうぞ」と答えると、イリセはノニを見つめたまま少し不服そうな顔をする。

「どうしました?」

 ノニが尋ねるとイリセは悩むように眉を寄せて視線を伏せ、ノニから逸らす。

「喋り方……ノニくんが敬語じゃない方が僕も楽だったから、その、外にいた時のままの方がいい……かなって。」

 しばらくイリセを見つめてからノニは「分かった」と返事をする。マカリが見たら怒りそうな気もしたが、依頼人の頼みであるならばノニにとっては特にこだわりもないのだ。イリセは目を細めて何だか嬉しそうに笑いながら、テーブルから立ち上がってキッチンの方へカップを取りに行く。

 何度押さえてもセジュラの毛がスーツケースに収まり切らず、ノニはふかふかと膨らんだ袋を取り出して自分の横に置いた。

「セジュラ、これだけゴウジュラに先に兄のところへ持って行って貰ってくれ。ああ、あとこの粉も入れておこう。」

 抜け毛がたっぷり入った袋に例の粉をまとめた布袋も入れ、やっと収まりが良くなったスーツケースを見下ろした。ふと横を見ると既に袋がなくなっている。

「『ゴウジュラ』っていうのは、セジュラのきょうだいみたいなもの?」

 カップに水を入れてテーブルに戻って来たイリセは、ノニとセジュラ、どちらかに限定することなく質問を投げかけて来る。

「ゴウジュラはノニの兄貴のやつだ。思念のやりとりは出来るし、あいつは飛ぶのが速いから色々運んでくれるんだぜ。」

 セジュラが得意そうにイリセの質問に答えた。内容はあまり的を得ていないというか曖昧なものではあったものの、イリセが「へー」とセジュラに返事をして話が終わった。

「ゴウジュラは時間の流れが違うところを移動するらしくて、いつもわたしの仕事道具を届けて貰ってるんだ。姿は見たことがないけどね。」

 スーツケースを閉じながらノニが言うと、イリセは「色々なものがいるんだね」と言いながら栄養剤の紙包を開いて水を口に含み、少し躊躇ってから栄養剤を口に入れて顔を歪める。味はあまり良くないのだろう。あの薬屋の欠点は「奥の五感」の味覚がそれなりに開いていないと、薬がこの世とは思えない味がすることだ。逆にその味を感じるということはまだ奥の舌が開いていないので、ノニは少し安心した。

「目薬、痛くないかな……」

 薬を飲み終わって憂鬱そうに呟くイリセに、セジュラがクッと笑った。

「わたしが寝る前に点してあげよう。」

「えっ!? 今日も一緒に寝るの!?」

 ノニの言葉にイリセはそう言ってノニを振り返った。マカリに別のベッドも入れて貰っていないし当たり前だろうと思ったものの、ノニは「嫌か?」と首を傾げる。イリセは少し頬を赤らめながら考え込み、首を振った。

「目に何か群がって来るんだろ……ノニくんと一緒の方が安心出来るけど………」

 ノニは同じベッドで眠るというよりは大人数の雑魚寝に慣れているものの、普通の人間でそれをするのはいくら大きなベッドとはいえ子どもか恋人か夫婦くらいのものだ。友達、特に男同士では基本的にはしないだろう。

「じゃあいいだろ。」

 軽い口調でノニが言うと、イリセは目を少し泳がせて「うん」と素直に返事をした。

 夕方になるとマカリがイリセの服や日用品を届けに来て、今日一日で疲れたのか不眠の影響が大きいのかイリセは強い眠気を訴えてシャワーを浴びに風呂場へ行った。セジュラがそれに同伴し、ノニは少しずつ暗くなる壁面の窓の外を見ながら耳を澄ませていた。

(夜にならないと出ないのか?)

 怪異の目撃談に夜が多いことは事実だが、恐らく実体のあるものでここにイリセがいることを既に理解しているにしては、訪問が夜だけなのは妙だった。ノニがいることでしばらく身を潜めたのかもしれないが、イリセを狙い澄まして来ているにしてはずいぶんと気まぐれだとノニは思う。あれだけ嫌な呪法でイリセを追い詰めたにしては、命まで奪おうという感じではないのだ。姿すら見せない。

 そうしているうちにイリセとセジュラが風呂場から戻り、イリセが水を飲んだ後にだんだんと体温が下がって来たのか眠そうな目になって来た。自分で何とか寝室へ移動するイリセをテーブルの上の目薬を持って追いかけてベッドに寝かせてから、ノニはカチカチと音をさせて目薬の蓋を開けた。セジュラものそりとベッドの上に乗って来て横になる。

 素直に目を開いたイリセの青みがかった深いグリーンの瞳にノニは目薬を点眼して、ベッドサイドに備え付けられているティッシュを取ってイリセの手に渡した。

「今、僕は……きみとセジュラが唯一の味方のような気がしてる。」

 ノニは目薬の蓋を閉めてベッドサイドに置き、床に膝を立ててベッドに肘をついてイリセを見つめた。

「たぶん、あなたにはもう少し強力な味方はいると思うな。こんな怪しい便利屋と獣じゃなくてさ。」

 わざと素っ気ない返答をするとイリセは眠そうな目で視線を動かしてノニを見た。

 あの座敷童はイリセを心配して周りをうろついていたのだ。最初に出会った時も、イリセが執務室にいれば危険なことが起こると考えて足止めしようとしたのだろう。

「黒い蛙のぬいぐるみに見覚えない?」

 ノニの問いにゆっくりと何度か瞬いて、イリセは「ああ」と微かに声を出した。

「子どもの頃に持ってた。………誰かにあげちゃったんだ。」

 その答えにノニは納得し、自分の推測を確信に変える。

「じゃあそれを持っている子に出会ったら、その子はあなたの味方だ。きっとずーっと大事に持ってるはずだから。」

 不思議そうな、眠そうな瞳で瞬きをして、イリセは「うん」と返事をする。そしてゆっくりと目を閉じた。

「僕……社長には別にならなくてもいい。でも、ずっと子どもの頃からそのために頑張って来たから、だから………みんなに認めて貰えないのは嫌だなあ。どうしてお祓いしようなんて言ったんだろ。………みんな僕のこと、気が狂ったと思ってる。変なものが見えるようになってしまったから。」

 これは夢うつつのイリセの本音に近い、酷く素直な言葉だ。そして怪異にほとんど接することがない「普通」の人間が抱く一般的なものだ。

 ノニはブランケットを広げてイリセにかけながら、ぽんぽんと胸元を軽く叩いた。

「怪異が見えるのは、気が狂ったわけじゃない。あれはすぐ隣にある異界だから。……自分が在るのとは違う世界が垣間見えるだけだ。」

 イリセは薄く目を開き、深い碧色の瞳でノニをじっと見つめた。黒く染めた髪の隙間から覗くその色は金糸の髪の時よりは暗い魅力を放ち、ノニは別のタイプの生き霊が憑かないか心配になる。

「ちがう……世界……」

 微かな声の呟きが、イリセのすうっと静かな寝息で溶けていった。

 ノニはため息を吐いて寝室の灯りを消すと音を立てないようリビングに戻り、またソファに座って眉を寄せる。

 明日にはここを出なくてはいけなのだとノニはこめかみを指で掻いた。

 一番危険であろう怪異の正体が分からないのは不安ではあったが、目の治療が進めばそもそも見えも感じもしなくなる可能性は高く、仕事をしばらくしないのであればあまり心配することではないのかもしれない。

 滞在期間が短いことにイリセはごねたものの、怪異専門の便利屋とはそういうものだ。退魔の力はそれほど高くなく、退治屋のように怪異に恐れられることもない。自分自身の情報を明かすような隙を見せれば飲み込まれる。神域でない場所には長く留まれず、一般的な連絡方法は使うことが出来ない。

 何故なら、いずれ追って来る大きな怪異に捕まってしまうからだ。

 ノニの兄は実家のある神域から出ないことを選んだ。高い技術で退魔道具を作ってはいるものの自分自身はあそこから3日も外に出られない、旅行も二泊三日が限界だ。

 あのひたひたした音が今夜出てくれれば、夜通しかけても正体を突き止めて何とかしてやるのにと思いながら、ノニはもう一度ため息を吐いた。

 明日、イリセにはきちんと話しておかなければならない。

 おかしいと思ったら、見えないふりをしろ。

 目を合わせるな、返事をするな。

 こちらが怪異に気付く時、あちらも人間に気付くのだ。

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