【街】 3-②

 イリセの執務室は思っていたよりは大きくない部屋だったが、天井はやたら高い。壁の一面はガラス張りになっていて、ずらりと並んだ書棚と大きめの机が1つ。椅子は話に聞いた通りのリクライニングのついた高級そうな社長椅子だ。

 この街に限らず全ての書籍が電子媒体で読めるこの時代にしては少し古めかしいが、本自体も古いものが多くジャンルは多岐にわたっている。他にはモニターや何かの試作品のような機械っぽいものや玩具のようなもの、建物の模型が置いてある。何かを撮影するのか簡易スタジオのようなものもあり、ノニはイリセの仕事内容が想像出来ずに首を傾げた。

 ただ、それらはあまりノニの仕事には関係がない。

 物は多いがあまり強い反応のあるものはなく、ノニはきょろきょろと執務室内を見回しながらガラスの壁面を下から上まで見上げた。そこから床や机の下を這って観察しながら椅子の下まで来たところで、ノニは立ち上がって出入口の方を見る。

 所在なく部屋の真ん中に立っているイリセと大人しくその腕の中に収まっているセジュラを横目に、ノニは椅子から机を通り過ぎて部屋の出入口に近付き、傍にあるウォーターマシンに目をやった。

(『椅子に座っている時』ではなく、ここまで来てから『ひたひた』という音が聞こえた。)

 もう一度ガラス張りの壁面を見上げてから、ノニは出入口のドアを開けて廊下の様子を見て、執務室の中を振り返る。

(音で『呼んだ』んじゃない。イリセが移動したから追いかけた………?)

 夜景は見えなかったという話なので、ガラスの外側に貼り付いて様子を見ていたのならば、ウォーターマシンへ向かう姿はそのまま出入口に向かうように見えただろうな、とノニは想像した。

 実際のところ、怪異にはそれぞれ千差万別のやり方や制約がある。

 セジュラのような実体を持つものであれば、このフロアに侵入すること自体が物理的に不可能だといえる。どれほど小さく変化しようと、出入りする人間やロボットにくっついて来ないと何も出来ないからだ。そしてそこまで出来るのであれば他の場所でも良かったはずだ。

 目が合ったり言葉を交わすだけで何かしらの影響を及ぼすことが出来るものならば、ガラス越しに眺めて、本人が反応を示すまで待つだけで十分といえる。

 ならば「黒い塊」と「子どもの声」は一体何なのだろう。

 イリセの奥の五感は、話を聞く限り少なくとも触覚まで開いている。恐らくは「ひたひた」と音を出すものが、その黒い塊と子どもの声へのイリセの反応を見てそれを察して「老人のような声」で話しかけたのだとノニは推測した。

 一連の出来事の流れは想像出来たものの、肝心の正体もイリセの奥の目が開いた理由も分からない。

 出入口のドアを開けたまま廊下を見つめて、ノニはドアを背で支えたまま自分で握り拳を作る。夜でも照明で明るかったと言っていたが、人間の視覚の誤差から考えるともう少し大きいはずだ。

「イリセさん、ちょっと来て下さい。」

 振り返ってイリセを呼んだノニに、顔を上げてセジュラを抱いたままイリセがとことこと寄って来る。ドアを手で押さえながらノニは少し廊下側に出て、今まで自分の立っていた場所を指で指し示した。

「黒い塊を目撃したのはここでいいですか?」

 イリセが頷くのを確認して、ノニは廊下を振り返る。

「今からわたしが廊下に出ますから、その黒いのがいたあたりを教えて下さい。ドアは押さえてて下さい。」

「うん、分かった。」

 返事をしたイリセを置いて、ノニは廊下に出る。数メートル歩いたあたりで立ち止まってイリセを振り返ると、「あと一歩先だったような……」と不安そうな顔で首を傾げながら言って来る。ノニは足下の絨毯張りの廊下をぐるりと見回すと、床に膝をついて四つん這いになった。

 執務室の前からエレベーターホールまでの真っ直ぐな廊下を低い視線でじっと首を振って見て、ノニは眉をしかめる。

「セジュラ。」

 名を呼ぶと、ひょいっとイリセの腕を抜けて中型犬くらいの大きさになったセジュラが、床に鼻を近付けてフンフン嗅ぎながらノニの元へやって来た。そこでノニを通り過ぎてもう少し先のところで、すん、と鼻を鳴らして止まる。

「ここなんだが……ンンー……」

 困惑したような声を上げて、セジュラが執務室のイリセを振り返った。

「あのドアの前の方が何かにおうンだよなァ。強いっつか、染みついてるっつか……」

 そう言いながら執務室前に戻り、イリセの足下にまとわりつくように床を嗅いで鼻を鳴らしてからセジュラは「はん」と呟いて一度天井を見上げ、それから絨毯張りの床をがりっ、と掻くような仕草をして舌打ちをし、ノニの顔を見た。

「ここに、何かある。」

 イリセが足下のセジュラを青い顔で見下ろすのを見ながら、ノニはそちらへ歩いて近付いた。日が落ちてきたようで、執務室の中はガラス張りの壁面から入る夕陽で赤くなっている。恐らくこういった光も窓のシステムで調整出来るのだろうが、イリセの様子を見る限りは話を聞いた一件以来この執務室に入っていないのだろう。

 ノニはセジュラの隣にしゃがみ込んで床を撫でながら観察し、そのまま先ほどの位置を目で確認してから立ち上がり、後ろ向きに執務室の中に入ってからまたゆっくりと出た。

「奥の耳……」

 口の中で小さく呟いてからイリセを振り返り、ノニは瞬きをする。

「……イリセさん。………今、何か音がしますか?」

「えっ?」

 ずっと顔色が悪いのは気付いていたが、どうやら体調や以前感じた恐怖の記憶だけではない様子だ。

「例えば時々、ぱちんとか、パキッとか。自分の周りで。」

 ノニの言葉に泣きそうな顔になりイリセは目を瞬いた。瞳は「どうして分かるのか」とノニに問うている。

「それはあなたに元々ついていた生き霊が、何とかあなたの傍に行こうとアタックして、その握っている棒の力に弾かれる音です。」

 視線をゆっくりと下にやりイリセは白銀色の棒を少し持ち上げて眺め、頼るようにぎゅっと握り締める。

 イリセに憑いていた生き霊は今やこの執務室の天井いっぱいに群れ、こちらを見下ろしているのだ。

 夕陽が山の向こうに沈んで、窓の外にブルーモーメントの色が満ちる。ノニはため息を吐いて執務室の高い天井を見上げた。

(これじゃあ、本人はちゃんと見えなかったかもしれないなあ。)

 ガラス壁の向こうでも廊下でもイリセと目が合ったのか、これだけの生き霊が周りにいれば怪異の方から見えなかった可能性はある。だから目と耳の両方を開いたのかもしれないと考えて、ノニは納得した。

 ノニにつられてかイリセもゆるりと天井を見上げ、そしてふらりと体を傾げてドアに背をぶつけた。

「大丈夫ですか?」

 ずるずると座り込みそうになったイリセの背に手をやって体を支え、ノニがその顔を覗き込むと、瞳がゆらゆらと揺れている。恐怖に泣くのをこらえているのかと思ったが、違う。眉を下げた強張った表情ではあるものの、何かの糸が切れたように視線が合わない。

「……イリセさん?」

 声をかけた瞬間にぱちんっと視線が合い、イリセの体がびくりと震えた。

「あ………すまない……」

「センム、寝れてねーンじゃね? 普通の人間でも寝てる間だけは奥の五感がちょっと開くからな。生き霊の声が聞こえてたりすると最悪だぞ。」

 ノニはふむ、と口の中で言うと、そのままイリセの膝の下にもう片方の腕を入れた。そしてイリセをゆっくりと持ち上げて首だけでセジュラを振り返る。

「すまないがエレベーターと部屋のキーの操作は任せるからな。」

 そう言ってイリセを持ち上げたままエレベーターホールに向かって歩き出すと、ノニの腕の中でイリセがぽかんとした表情から我に返ったようにノニを見上げた。口をぱくぱくさせながら、しかし何から言って良いのか分からないといった風にノニを見つめ、そしてやがて頬を紅潮させた。

「あっ……るけ、自分で歩ける、から!」

「いえ、完全に意識を失われると流石に運べませんので、無理はしないで下さい。」

 淡々と言うノニにイリセは首を振る。

「せ、成人した大の男をこんな風に抱えるなんて、」

 そこで言葉が切れ、イリセはノニから視線を外してうつむいた。先頭を大きめの白いアライグマのような姿になったセジュラが四足歩行でちょこちょこと歩いて行き、エレベーターホールまで行って、エレベーターの呼び出しボタンを押してから二足歩行で座ってノニを振り返る。

 このフロアにも部屋のあるフロアにも誰一人立ち入ることの出来る人間はおらず、誰に見られることもないのに恥ずかしいという感情が湧くのか、とノニは不思議な気持ちになった。

「まあわたしは力持ちですから遠慮しなくていいですよ、ちょっとウトウトしちゃっても。キーはありますか?」

 ぎし、とイリセの体が強張った。何度かぱちぱちと瞬きと同じく睫毛が揺れるのを、ノニは上から眺める。

「じ、自分の、部屋は……その。」

 両手でぎゅうっと白銀色の棒を握り締めるイリセを見て、ノニはふっと目を細めた。少なくとも来客用と思われる小さな部屋はあったのだから、マカリに言って簡易ベッドでも入れて貰うかと考え、顔を上げてセジュラにちょいちょい、と指先で自分のポケットからキーを出すように指示をする。

 そしてイリセに視線を戻し、顔を覗き込んだ。

「………あれは寝室で寝たがるので、セジュラと添い寝でも構いませんか? ちょっと毛がつきますが。」

 何か言いたげではあるものの、眉を下げた泣きそうな顔の上目遣いでノニを見上げて、イリセは「……うん」と消え入りそうな声で返事をした。

 ノニはふと、自分の目に違和感を覚え始めた幼い子どもの頃がどうであったか考えた。

 怖かっただろうか。

 辛かっただろうか。

 誰かに助けて欲しくて泣いていただろうか。

 そこまで考えてから、答えが出る前にアライグマがごそごそとジーンズの尻のポケットを探るのに気付いて思考を中断した。

 アクリル張りのエレベーターの箱が到着して乗り込み、セジュラがキーを機械にかざしてピッと音をさせる頃には、イリセは本当にウトウトし始めていて、セジュラがククッと笑うのがノニの耳に入った。

「ああ、そうだノニくん……あれを、…………ん……」

 夢うつつのまま何かを言おうとするイリセに答えずに、ノニは表情に視線をやる。寝言に返事をしてはいけないというのは迷信だが、この状態の人間が一番何者にも簡単に憑かれやすく、中に入ったものが『返事をしてはいけないもの』の場合はあるのだ。

「あれが……ないと………ちゃんと眠れない…………」

「ククッ、寝てるけどナァ。」

「よっぽど安心したんだろうね。………誰か札くらい、やれなかったのかな。」

 何人か、お祓いや調査に来たと聞いてはいたが、この顔の見えないくらいの生き霊を憑けて、少し話しただけで泣きそうになるほど恐怖に怯える人間に、せめて何か守りの一つくらいは与えてやるのがこの業界の礼儀ではないのか、とノニはため息を吐いた。

「可哀想に。お守り、兄に頼んでおいてあげてくれ。明日ゴウジュラに届けて貰えばいいから。」

 セジュラは「はん」と小さな声で言うと、アライグマのまま手をくるくると回して空中を掻く仕草をする。ノニがふと振り返って背後のガラスの向こうの山を眺めると、夕陽の手前にクラゲのようなものが空にぶらりと下がっているのが見えた。

 ノニが眉を寄せて歯を見せて威嚇すると、クラゲのようなものは触手をぴろぴろ動かして横に広げて踊りのようなものを見せて来る。

「おい、威嚇し返されてるんだが。何だあれ、初めて見た。」

 セジュラは面倒そうな声を出して恐らくはノニと同じように振り返り、続けて「あー…」と呟いた。

「違えよ、あれは人間に見られるのが好きなだけだ。そこまで地上に近付けねえから嬉しいんだろ。」

「『嬉しい』っていう感情があるのか、あれ。」

「知らん。」

 適当なことを言ったセジュラを見下ろして睨みつけていると、エレベーターが停止した。ノニの部屋のフロアに到着したらしく、セジュラが四足歩行でエレベーターから出て廊下を歩いて行く尻を見ながら、ノニはイリセを起こさないようゆっくりと歩いてついて行く。

 セジュラが背伸びをしてキーを部屋のドアに差し込むと、ピッ、カシャッ、と音がした。

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