喜び

尾崎硝

喜び

 水の底もはっきり見えるくらいに透き通った海に太陽の光がちらちらと反射していた。砂浜を裸足でとことこと歩いて迫ってくる波に逃げながらも、たまに呑まれてはきゃっきゃと甲高い叫び声を上げた。

「とおちゃんパイナップルまた食べたか!」

 当時幼稚園児だった私は海辺をはしゃいで走り回っていた。

「しゃっき飽くほど食うたやろ」

 呆れたように父が言った。

「だってうまかっちゃもん。とおちゃんパイナップル!」

 私は溢れんばかりの喜びを表すかのようにさざ波の音に負けなくらい叫んだ。

「そげん良かったんかね、沖縄んパイナップル」

 父ははしゃぎ回る私を一歩後ろで見つめていた。声は落ち着いていた。時々波に向かって走る私を見て心配そうに口を開ける。

「他にもうまかもんあったやろ」

 父は眉を下げる。

「パイナップル!」

 私はそれだけを嬉しそうに叫んでいた。

「はぁ…」

 父はため息をついた。

「そういやあお土産屋さんにパイナップルジュース売っとったな…」

 父が空を見上げながら呟く。

「パイナップルジュース!」

 私は目を輝かせた。

「それなら買うちゃあよ」

 私の方に目を戻してにこりと笑ってくれた。

「やった!」

 私は笑った、その瞬間地面に潜ろうとする蟹を見つけたのですかさず手を突っ込んだ。

「あーちゃん次はひめゆりの塔行くばい」

 父が歩き出したので私は慌てて蟹を置いてついて行った。ぶらぶらと暇そうにしていた父の左手を砂まみれの手で掴む。父は気にせず握り返した。

「パイナップル!パイナップル!」

 ぴょんぴょん飛び跳ねながら叫ぶ。

「ほら一旦パイナップルんことは忘れて…沖縄…よか所やなあ…今度はひーちゃん連れてまた行きたかねえ」

 遠くなっていく波を眺めながら父は呟いた。妹はまだ幼いので父の実家に預けられていた。


 高校生になったある日、私はいたずらっぽい笑顔を父に向けていた。

「父ちゃん、歌作ったっちゃけど歌うてよか?」

「よかばってん」

 父が不思議そうに答えた。早速歌い出した。

「あ〜な〜た〜の髪の毛ありますか〜は〜げ〜は〜げ〜そんなの___」

 歌を聴いていた父が少しずつ眉を歪ませる。

「殺されたかとや?」

 私はにやにやしながら続けた。

「は〜げ〜、でこっぱち〜」

「おまえ良心とかなかとか?」

 父が声を高くして憤慨した。

「そげなと父ちゃんの毛根と一緒に死滅したわ」

 途端に面白くなって最後の声は笑い声に混じれて消えてしまった。この頃の私は父の禿頭をよく揶揄っていた。

「よう言いやがってこん…! てかあーちゃん父ちゃんのうまかっちゃん全部食べたろ」

 急な指摘にぎくりとして、私は家の外に逃げた。

「おまえ! 父ちゃんのうまかっちゃん! 五袋あったったい! いつ食べた!」

  父が追いかけてきた。

「昨日までに」

 家の庭を走り回って笑う。

「夜中に!?」

 父が驚いたように叫んだ。

「そう」

 庭の冬青の木に隠れながら顔を覗かせて頷いた。

「また変なビデオ見よったんやろ! おまえこん…!」

 父が悔しそうに拳を振った。

「父ちゃんと違うもん。健全なホラー映画ばい〜」

 私は父を置いて行ってリビングに逃げた。

「くっそ!! ひーちゃん! あーちゃんがね〜」

 父はいつも私に意地悪をされると妹に縋り付く。妹はリビングでくつろぎながらおやつをつまんでいた。

「臭か!近寄らんとって!」

 しかし妹は思春期だった。

「ひどか…」

 しょんぼりしたようにソファに座り込んだ。

「毛根も人望も乏しかね父ちゃん」

 私が笑うと父は叫んだ。

「せからしか!」

 気分が良くなった私は、今度は慰めるように父の肩に手を置いた。

「まあそげんはらかかんでから…コンビニでパイナップルジュース買うてきたけん、それで許して」

 片目を閉じて可愛くおねだりする。

「パイナップルジュース…」

 父が目を見開いた。何かを思い出したようだ。

「そうだあーちゃん、ひーちゃん。いつか沖縄行かん?」

「沖縄?」

 妹が興味を示した。

「そう、あーちゃんな小さか時行ったけどひーちゃんな行っとらんやろ。やけん久しぶりにみんなで行こうや」

 私と妹は立ち上がった。しかし私は俯いた。

「よかと!? …ばってん」

 父はうつ病だった。母と離婚してからずっと薬を飲んでいる。無理するとまた寝たきりの生活に戻ってしまうかもしれない。

「よかっちゃん! たった二日三日くらい。それに福岡から沖縄なんてそげん長旅でもなかっちゃけんしゃ」

 父は気を遣うように、余分に元気なそぶりをして言った。

「それよりも…」

 少し声を落として、父が続けた。

「おまえたちにはお母さんのことで苦労しゃしゃたけんな。せめたっちゃん償いに…」

 私は片眉を歪めた。

「あげんクソババアんことなんか気にしなさんな」

 すかさず口を挟んだ。私たちを捨てた母親。優しい父を騙した母親。

「そうか…じゃあいつにする?」

 父が力無く聞く。

「夏休みは? うちら部活とかないし」

 妹が口を開いた。私も続けた。

「うちも受験生やけん部活辞めとーし。行こうや」

 受験生だろうが関係ない。父が行こうと言ってくれたなら今すぐにでも行きたい。父が微笑んで頷いた。

「そうか…父ちゃんもそん日に休み作るーごとするばい」

「うん」

 私と妹は笑顔で頷いた。気づいたら家の空気はすっかり柔らかなものになっていた。

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喜び 尾崎硝 @Thessaloniki_304

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