シラクサから
尾崎硝
シラクサから
老人はシャンパンを開けて、黒くなった歯を下品にひけらかしながら笑っていた。
「はははは、本当に殺されるのかと思ったなあ! 」
黒髪の青年はテーブルの横に座りながら、コーヒーを飲んでいた。
「父さん、いったい僕のことをなんだと思っているんです」
鋭い瞳を真ん中が禿げた白髪の老翁に向けていた。
「そりゃあ、蛇みたいな男だと思っているよ。大体、わざわざモスクワからこうして会いに来たのも、何か陰がありそうだものなあ・・!」
「元はと言えば、父さんが遺産分与の関係で僕を呼んだんでしょう。おかげで、しばらく研究室を空けなくちゃいけなくなったんですから。それに・・・・」
青年は一度息を吐いて、声を一段低くした。
「どうして、僕だけを呼んだんですか」
老人は黙った。そして気まずそうに頭を掻いた。
「まさか・・・・忘れたんじゃないですよね・・・・!」
青年は目元を歪ませた。
「いや、いや〜、あいつはまだ全快じゃないから、呼ばないほうがいいと思ったんだ・・・・。 せっかくシラクサにいるんだから、わざわざこの寒いロシアに呼び戻す必要もない・・・・。 それに・・・・どうせ同じことだと思ったのさ」
「同じことって・・・・?」
老人は歯を見せた。
「そうさ、先に話してしまうが、儂は誰にも遺産を渡すつもりはない。すべて儂の生きてるうちに使ってしまおうと思ってね」
「・・・・そうだろうと思っていました」
青年はため息をついた。
「そうさ! だからこそお前が怖かったんだ、遺産を渡さないと言った途端、ワインの瓶で撲殺でもされないかと心配で心配でね、そこのミトゥーリチに向かって泣き喚いたほどだよ」
青年は部屋の傍にいる、自分と同い年くらいの、それにしては随分と老成した顔をしている無口な召使を見た。とりあえず青年は父親の皮肉を無視して疑問を投げかけた。
「僕だけがそれを知って、どうして同じことなんですか。あっちだって、突然遺産はないなんて言われたら、困るでしょう」
「それがそうじゃあないんだな」
父親がそう呟くともう一人の、今度は古参の召使、コルニーリィが食堂に入ってきた。
「イリヤ坊ちゃんが帰っていらっしゃいます」
「イリューシャ!?」
青年は驚愕して振り返ると、そこには新品の背広を着て帽子から亜麻色の髪をあらわにした、痩せぎすの青年が立っていた。
「おお、イリューシャ! 待ってたぞ! ほら、こっちへおいで。シャンパンはどうだい? 流石に旅の疲れに酒は毒か」
老人は机から飛び出すと、息子を抱きしめて席へ案内した。
「僕はコーヒーでいいです、お父さん」
「父さん!? イリューシャは呼んでいないんじゃ・・・・!?」
青年は席から飛び上がった。
「ああ、呼んではいないさ。こいつから来たんだ。半月前に手紙をよこしてね、もう外に出られるから、久しぶりに会いたいってね」
老人は機嫌が良さそうに笑った。
「おいお前、こいつを覚えているかい? お前の兄のダヴィートだよ。しばらくモスクワにいたらしい」
金髪の青年は愛想良く笑った。
「もちろん覚えています! ダヴィート兄さんお久しぶりです!」
純真な笑顔を見せられて、兄は少々怖気付いた。
「あ、ああ」
席に座って、弟と父親の二人は仲良さそうに、本当の親子のように談笑していた。
「なあ、イリューシャ、お前は文句はないよな?」
「ええ、文句はありませんよ。お父さんのお金ですから、お父さんの勝手にしてください」
弟はコーヒーを嗜みながら穏やかに笑った。
「そうだろう! そうだろうイリューシャ! なのにこのドージャときたら、金が欲しいわけでもないのに、文句のありそうな顔しているのさ。 怖くて怖くて夜も眠れないよ。 いつ寝込みを襲われるかわからなくてさ___」
「兄さんを悪く言うのはやめてください!」
突然叫ばれて、父は目を見開いた。兄は弟の方を見た。父は気まずそうにそっぽを向いた後、突然立ち上がり戸棚へ向かって歩いた。
「ああ〜酔い足りない! シャンパンがもっといるなあ!」
「父さん飲み過ぎですよ」
兄が止めようと立ち上がる。父は無視して戸棚を漁る。徐に無口なミトゥーリチが口を開いた。
「申し訳ありません旦那様。シャンパンは先程ので最後でございます」
「なんだ、仕方ないな」
戸棚から手を引っ込めて、父は出口へ向かった。
「よし、今日はまだ早いが寝よう。イリューシャ、お前も疲れただろう。コルニーリィに部屋まで案内してもらいなさい」
「はい、お父さん」
弟はにっこりと微笑んだ。
裏庭のベンチで兄は夜風に当たっていた。今日はあまりにも出来事が多すぎた。少し頭を冷やしたいと思っていた。裏庭につながっているテラスの方から控えめな足音が聞こえる。
「イリューシャ」
亜麻色の髪が揺れていた。
「兄さん」
「眠れなかったのか?」
「ええ、少し・・・・」
ベンチへ歩いてきて、隣に座る。
「7年ぶりだな」
「兄さん、元気そうでよかった」
たまらなくなって顔を覗き込んだ。
「イリューシャ、会えてよかった」
生まれて初めて見たであろう大人になった兄の笑顔に、弟は心底安心した。
「・・・・どうして帰ってきたんだ・・・・?」
「兄さんこそ、どうして・・・・?」
「俺は、遺産の話を聞いたら、縁を切ろうと思ったんだ。たとえ金がもらえるとしても、同じだったよ。あんな毒蛇の金なんか欲しくないからね。それでも、最後に筋は通しておこうかと思って」
「・・・・そうですか」
弟は悲しそうに目を伏せた。
「お前はどうするつもりなんだ?」
「僕は・・・・この家で暮らそうと思ってます」
兄はしばらく静止した。理解ができなかった。こんな毒のような家に、あんな毒のような父親と暮らすつもりなのか。
「冗談だろうイリューシャ。あのジジイは昼間から、息子がいるにも関わらず屋敷で乱痴気騒ぎを起こすんだぞ。お前がそんなところにいたら、また病気になっちまう・・・・」
「いいんです兄さん」
弟は澄んだ瞳で兄を見つめた。兄は立ち上がった。
「ありえない・・・・っ、あいつのご機嫌取りしたって遺産はよこしてもらえないんだぞ」
「わかってます」
兄は弟の肩を掴んだ。
「どういうことだよイリューシャ、お前結核でシラクサにずっと閉じ込められてたからって、寂しくて気でも違ったのか・・・・!?」
「僕はお父さんが好きです」
兄は呆気にとられた。呆気に取られて、部屋に戻ってしまった。しばらくして一枚の紙切れを持って弟の元へやってきた。
「これ」
「・・・・え」
「モスクワの俺の住所だ。いつでも来い。手ぶらでもいい。お前が耐えられなくなったらすぐにでも手筈は整える」
弟は兄から紙を受け取った。そしてそれを胸の前で握りしめた。
「・・・・はい・・兄さん・・・・」
ゆっくりと目を細め、にこりと笑った。
シラクサから 尾崎硝 @Thessaloniki_304
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