遠雷に雨2

 手に持っていたはずの荷物はいつの間にか失くなっていた。

 道路を流れていく水に足を捕られながらも、どうにか人気のある場所へと向かう。

 視線の先に大通りを見つけて、安堵した瞬間、ぐらりと体が倒れて水の中に大きく打ち付けた。周りを見ても誰もいない。ただ、焦って足が縺れたのだ。雨に打たれた体は重く、恐怖で膝が笑っている。

「だめ……しっかりしなくちゃ」

 必死に体を起こして視線を上げた。

 遠く空は鈍よりした雲に稲光が走っている。それを背景にパーカーのフードを被った男が立っていた。手には鉄パイプを握っていて、ナツキを見下ろしている。顔は黒くてよく見えない。

 雨の叩き付ける音に混じり、楽しげな声がかすかに聞こえた。

「アイ、シー、ユー」

 水音に混じってカラカラと鉄パイプがアスファルトを擦る。男の指先で鉄パイプが回転すると、目の前が真っ暗になった。

 ズキッと痛みが走り、幾つか鈍い音が聞こえた。腕はだらんと伸びて指先が赤く染まっている。殴られた?

 体を起こすもがくんと膝をついて、また水の中に倒れこむ。足が言うことを聞かない。訳も分からず振り返ると、男はすぐ傍に立っていた。高く上げた手の先で鉄パイプが光っている。

「アイ……シー……」

 殴られる!と、とっさに顔を背けた。が頭上でピシャンと何か弾ける音がして顔を上げると男が白い煙を上げて、後ろへ倒れていく。

「何?」

 雷だと気付いたのは少ししてからだった。

 息を整えて倒れている男に恐る恐る近づいた。

「死んだ?」

 ふらつきながら足で男の体を蹴る。動く様子はなく、ナツキはホッとして強く蹴飛ばした。男の体が揺れて何か固いものが転がり落ちる。折りたたみのポケットナイフだ。

 手に取るとずしりとしてそれをパチンと開く。汚れた銀の刃は雨に濡れて、赤黒い水がぽたりぽたりと零れ落ちる。

 これで……人を殺したのかな。そう思ってナツキは男を見下ろした。

「うう……」

 まだ息があったのかどす黒い顔の男が声を上げている。

 その時、ナツキの中で何かが壊れた音がした。男の傍に跪き、ただナイフを振り下ろす。振上げる度に男の体が揺れて、ナツキの目から涙が溢れた。

「嫌……嫌だ」

 ズキズキと痛む腕も、肉の塊を突き刺す感触も、永遠に終わらない何かのようで、恐ろしい。

 雨は止むことを知らず、ただそこにいる二人を叩き続けている。男の体は赤黒い液体が流れ始めると動くのを止めた。

 激しく息を吐いてナツキは嗚咽する。震える手から落ちたナイフは水の中にとぷんと落ちた。

「私、何で……」

 自分が何をしたのかわからずに立ち上がるとその場から動けなかった。

 ずぶ濡れの体は重く、すっと顔を持ち上げる。雨粒に目を閉じるとふと雨が止んだ。頭上に黒い傘が見えて後ろを振り返る。男が立っている。

「大丈夫ですか?」

 低く優しい声にその顔を見た。老人だ。随分と背が高く年齢は七十近いだろうか?深く刻まれた皺に西洋人のような面立ちが美しい。その瞳は心配げに揺れていた。

 差し出された手を取り立ち上がるも、がくがくと膝が笑い出す。バランスを崩した体を男は腕の中へ抱え込み「失礼」とナツキを抱き上げて男は優しく笑った。

「もう大丈夫です」

 優しい声に不思議と頷き、重かった体の力が抜けていく。落ちる瞼に闇が見えた。

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