刹那の4号車

地崎守 晶 

刹那の4号車

 疲れ切った頭に、うるさい警笛。足下から立て続けに強い振動。命綱代わりの吊革を握りしめる。すれ違う特急列車のせいで、古い車両が不快に揺れる。隣のおっさんの鞄の角がわき腹を抉ってくる。赤の他人と密着した背中、シャツの間を汗の雫が伝うのが分かる。代わり映えのしない、乗車率二百パーセントの地獄。

 満員電車は仕事のパフォーマンスを何割だかを下げるらしい。それが分かっているのなら、コロナ禍の時に社会はもっと変わっておくべきだった。

完全リモートワーク制で通勤の必要がなくなれば景気も上がっていただろうに。

 ほら、また電車が揺れ――


「あれ?」


 突然の解放感。素っ裸で人前に出たことに気づいた夢の中みたいで、戸惑った。

 圧迫感と、わき腹をえぐる鞄と、振動、音が消えていた。音割れしたスピーカースイッチをいきなりオフにしたらこんな風に感じるだろうか。全部の不快感がなくなってかえって落ち着かない。

急に自由になった体を大きく動かしてあたりを見回す。空っぽの水色のロングシート、ところどころに茶色い染み。大阪EXPO2045の中吊り広告。その向こうの中吊り広告は乗車マナー向上の呼びかけ。空っぽの吊革の輪が並び、ドアのガラスには駆け込み乗車禁止のステッカー。ドア横にはスポーツドリンクの広告。

床には誰かがこぼしたコーラの小さな水たまり。

それらが全部、はっきり見渡せた。

おっさんだけじゃなく、すし詰めだったはずの他の乗客が全員消え失せていた。この時間の電車で床が見える、なんてことがまずありえない。


「夢、か?」


 ありきたりな方法。頬をつねる。しっかり痛かった。


「マジかよ」


 無人の電車の中で独り言を言ったらこんなふうに響くなんて知らなかった。

 でも。夢じゃないなら、窓の外の景色はなんだ?

 振動も音もしないからこの電車は止まっているはずだ。なのに窓の外は、高速で流れていく風景をピンボケしたカメラで切り取ったとしか言いようのない――ビルも木々も空も滲んで混ざって固まっている。

 顔を近づけて、まじまじと見ても、職場の一駅前の目印にしているランドマークは動かないし歪んでぼやけたままだ。

「いやいや、いやいや」


 さっきまで汗ばんでいたのに、鳥肌が立つ。

 人がいない、景色が固まっている、自分の声以外の音がしない。

 うんざりするほど見飽きた車内が、いきなり不気味で仕方ない空間に変貌した。

 スマホを取り出す。圏外。

 バクバクとうるさい心臓。追い立てられるように足を進め、前の車両に続くドアを引く。誰かいないか、それか先頭車両に行って運転士だか車掌だかに会えれば何とかなるんじゃないかと。

ドアが重い。こんなに重かったっけ?

 車両連結部は好きじゃない。いつもぐらぐらしているから。それが今はぴくりともしなくて、逆に落ち着かない。

 反対側の扉を苦労して開けて滑り込む。そこも同じように、がらんとしていた。

 膨らんでいく不安を抱えて、落ち着きなく周りを見回す。

空っぽの水色のロングシート。ところどころに茶色い染み。大阪EXPO2045の中吊り広告。その向こうの中吊り広告は乗車マナー向上の呼びかけ。空っぽの吊革。ドアのガラスには駆け込み乗車禁止のステッカー。ドア横にはスポーツドリンクの広告。床には誰かがこぼしたコーラの小さな水たまり。

そして、窓の外にはブレた写真そのものの、滲んで固まった景色。


「……え?」


 気のせいだと言い聞かせる。言い聞かせて、次の車両に続くドアを開ける。

 重いドア、異様に安定した連結部。また重いドア。


「また……かよ」


 同じようにしか、見えない。

空っぽの水色のロングシート。ところどころに茶色い染み。大阪EXPO2045の中吊り広告。その向こうの中吊り広告は乗車マナー向上の呼びかけ。空っぽの吊革。ドアのガラスには駆け込み乗車禁止のステッカー。ドア横にはスポーツドリンクの広告。床には誰かがこぼしたコーラの小さな水たまり。

窓の外にはブレた写真そのものの、滲んで固まった景色。最寄り駅の目印のランドマークのビルの位置が、さっきまで通りすぎた車両の窓と同じだった。


「そんなはず、ない」

早足で通りすぎ、次の車両に続くドアを開ける。否定しつづければ変わると信じ込もうと。

 重いドア、異様に安定した連結部。また重いドア。

空っぽの水色のロングシート。ところどころに茶色い染み。大阪EXPO2045の中吊り広告。その向こうの中吊り広告は乗車マナー向上の呼びかけ。空っぽの吊革。ドアのガラスには駆け込み乗車禁止のステッカー。ドア横にはスポーツドリンクの広告。床には誰かがこぼしたコーラの小さな水たまり。

窓の外にはブレた写真そのものの、滲んで固まった景色。

最寄り駅の目印のランドマークのビルの位置が、さっきまで通りすぎた車両の窓と同じだった。


「なあ、夢だろ」


 だったら早く覚めてくれ。

重いドア、連結部。重いドア。

水色のロングシート。茶色い染み。中吊り広告。吊革。駆け込み乗車禁止のステッカー。ドア横の広告。床の水たまり。窓の外の固まった景色。

滲んだランドマークのビルは1ミリも動いていない。


「進んでないなんて、あるわけ」


重いドア、連結部。重いドア。

水色のロングシート。茶色い染み。中吊り広告。吊革。ステッカー。ドア横の広告。床の水たまり。窓の外の固まった滲んだビル。


「おかしくなりそうだ」


重いドア、連結部。重いドア。

水色のロングシート。茶色い染み。中吊り広告。吊革。ドアのガラスには駆け込み乗車禁止のステッカー。ドア横の広告。床の水たまり。窓の外の固まった滲んだビル。


 悪態をつくことすらできない。


重いドア、連結部。重いドア。

水色のロングシート。茶色い染み。中吊り広告。吊革。ステッカー。ドア横の広告。床。水たまり。窓の外の固まった滲んだビル。


 今、何両目なんだ。もう何両も通りすぎたはずなのに。



重いドア、連結部。重いドア。ロングシート。染み。中吊り広告。吊革。ステッカー。ドア横の広告。床。水たまり。窓の外。ビル。


 そもそも俺は最初何両目にいたのか。


重いドア、連結部。重いドア。ロングシート。染み。中吊り広告。吊革。ステッカー。ドア横の広告。床。水たまり。窓の外。ビル。


 あと何両先に行けば先頭車両に辿りつけるんだ。


ドア、連結部。ドア。ロングシート。染み。中吊り広告。吊革。ステッカー。ドア横の広告。床。水たまり。窓の外。ビル。


 見た目が変わらない。


ドア、連結部。ドア。ロングシート。染み。中吊り広告。吊革。ステッカー。ドア横の広告。床。水たまり。窓の外。ビル。


 自分の息と足音の他は何も聞こえない。


ドア、連結部。ドア。ロングシート。染み。中吊り広告。吊革。ステッカー。ドア横の広告。床。水たまり。窓の外。ビル。


 景色は動かない。


ドア、連結部。ドア。ロングシート。染み。中吊り広告。吊革。ステッカー。ドア横の広告。床。水たまり。窓の外。ビル。


 誰もいない。


ドア、連結部。ドア。ロングシート。染み。中吊り広告。吊革。ステッカー。ドア横の広告。床。水たまり。窓の外。ビル。

電車は動かない。


ドア、連結部。ドア。ロングシート。染み。中吊り広告。吊革。ステッカー。ドア横の広告。床。水たまり。窓の外。ビル。

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うごかない。


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静寂。


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 誰か助けてくれ。


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だれか


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たすけて


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