第13話 ただいま、私の愛する島
ユイナが、光り輝くガジュマルの根元の洞窟へと、決意の一歩を踏み出したその瞬間。彼女の体は、ふわりと、あたたかい光に包まれました。それは、恐怖を感じさせるものではまったくなく、むしろ、生まれる前に還ったかのような、あるいは、母親の腕に抱かれるような、途方もなく優しく、懐かしい感覚でした。目の前が、真っ白な光で満たされます。その光の中では、時間の感覚さえも曖昧でした。ほんの一瞬だったかもしれませんし、あるいは、とてもとても、長い時間が経ったのかもしれません。
次に、ユイナがそっと目を開けた時、彼女の鼻をくすぐったのは、〝果ての島〟の嗅いだこともない花の蜜の甘い香りではなく、ずっと昔から慣れ親しんだ、懐かしい潮の匂いでした。耳に届くのも、名も知らぬ極彩色の鳥の歌声ではなく、子供の頃からずっと子守唄代わりに聞いてきた、島の浜辺に寄せては返す、優しい波の音。
「……え?」
そこは、〝果ての島〟の神秘的な森ではありませんでした。
ごつごとして、けれど、どの角を曲がればカニの親子に出会えるかまで知っている、黒い岩肌。白い砂浜に打ち上げられた、色とりどりのサンゴのかけらや、丸くなったシーグラス。そして、崖の上を見上げれば、そこには、夕暮れの茜色に染まる空を背にして、彼女の愛する「カフェ 南十字星」が、まるで「おかえりなさい、よく頑張ったね」と言っているかのように、静かに、優しく佇んでいたのです。
「帰って……きた……?」
ユイナは、呆然と呟きました。信じられませんでした。どうやって?いつの間に?
まるで、長い長い、美しくも過酷な夢から覚めたかのようです。でも、頬を撫でる、少しだけ湿り気を含んだ島の風の感触も、裸足の足裏に感じる砂の冷たさも、すべてが、紛れもない本物でした。〝果ての島〟の主が最後の魔法で、彼女を故郷の島まで送り届けてくれたに違いありません。
ユイナの膝から、がくんと力が抜けました。彼女はその場にへなへなと座り込みます。〝果ての島〟へ行くと決めてから、ずっと張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと音を立てて切れたのです。帰ってきた。無事に、帰ってこられた。その安堵感で、胸がいっぱいになりました。涙が、じわりと滲みます。
しかしすぐに、心臓を氷で鷲掴みにされたかのような、鋭い痛みが彼女を襲いました。
(海人さん……!)
自分だけが帰ってきても、意味がない。彼がいないのなら、この旅は失敗も同然でした。
ユイナは、狂ったようにあたりを見回しました。その瞳は、涙で滲み、夕暮れの浜辺の景色が、頼りなくぼやけます。帰ってこられた喜びが、一瞬にして、彼を失った絶望へと変わっていきました。一人で帰ってきてしまったのかもしれない。あの冷たい海に、彼を置き去りにして……。
「海人さん! 海人さん、どこにいるの! 返事をして!」
声の限り、叫びます。喉が張り裂けそうでした。お願いだから、ひょっこりと、いつもの照れくさそうな笑顔で、「なんだよ、ユイナ」と、岩陰から出てきてほしい。しかし、返ってくるのは、無情な波の音だけ。
(私のせいだ……私が、あの人を……巻き込んでしまったんだ……)
後悔の念が、黒い奔流となって、彼女の心を飲み込もうとした、その時でした。
波打ち際に、何か黒い影が横たわっているのが、ぼんやりと見えたのです。
ユイナの心臓が大きく、そして痛く跳ねました。希望と、それと同じくらいの恐怖が、同時に彼女の全身を駆け巡ります。彼女は、弾かれたように立ち上がりました。そして、もつれる足を必死に動かして、その影へと駆け寄ります。
「……海人、さん……?」
そこにいたのは、探し求めていた、海人でした。彼は、旅に出た時の服のまま、びしょ濡れになって、砂の上に倒れています。その顔は蒼白で、唇には色がありません。ぴくりとも、動きませんでした。
「いやっ……! いや、いやいや!」
ユイナの頭の中が、真っ白になりました。彼女は、彼の隣に崩れ落ちると、震える手で、その頬にそっと触れます。冷たい。〝果ての島〟で触れた、見えない壁のように冷たい。彼の体から、命のぬくもりが失われていくような、絶望的な感覚に襲われました。
(お願い、お願いだから……神様、島の主さま……!)
祈るような気持ちで、彼の胸に耳を寄せました。風の音と、波の音しか聞こえません。諦めかけた、その瞬間。嵐の轟音の中でも、決して聞き逃すことのなかった彼女の特別な耳が、すべての雑音の奥で、とくん、とくん、という、か細く、けれど確かな命の鼓動を捉えたのです。
「……生きて、る……」
ユイナの目から、堰を切ったように、大粒の涙が溢れ出しました。よかった。生きていてくれた。ただ、それだけで、十分でした。それだけで、彼女の旅は、報われたのです。彼女は、ぐったりとした海人の体を、力の限り抱きしめました。彼の体からは、冷たい潮の匂いがしました。
「ごめんなさい……ごめんなさい、海人さん……。私のせいで、こんな……辛い思いをさせて……」
何度、謝っても、足りませんでした。自分のわがままが、彼をどれほど傷つけ、苦しめてしまったことか。ユイナは、子供のように、ただただ泣き続けました。
しばらくして、ユイナは、このままではいけないと、かろうじて気力を奮い立たせました。海人の体を、早く温かい場所へ運んであげなくては。しかし、彼の体は、今のユイナが一人で運べるほど、軽くはありません。
ユイナは、崖の上の、集落へと続く小道を見上げると、残った力のすべてを振り絞って叫びました。
「誰か! 誰か、来てください! 海人さんが……海人さんが、大変なんです!」
その悲痛な叫びは、幸運にも、浜辺の近くの網小屋で片付けをしていた、海人の漁師仲間の耳に届きました。
「今の声、ユイナじゃねえか?」
「馬鹿言え、ユイナは店を閉めてるはずだろ……いや、でも……」
若者たちが、何事かと浜辺へ駆け下りてきて、そして、倒れている海人と、その傍らで泣きじゃくるユイナの姿を見て、息をのみました。
「海人!」
「ユイナ! お前、今までどこに……無事だったのか!」
驚きと、安堵と、そして心配が入り混じった声。ユイナは、知っている顔を見て、張り詰めていた最後の糸が切れ、その場に崩れ落ちそうになりました。
「お願い……海人さんを、カフェまで……」
若者たちは、ユイナのただならぬ様子と、ぐったりとした海人の姿を見て、すぐに状況を察してくれました。多くの質問が喉まで出かかっているのを、ぐっとこらえて。
「おう、任せとけ!」「しっかりしろよ、海人!ったく、無茶しやがって……」
彼らは、自分たちのリーダーを、力強く、けれど、壊れ物を扱うように、そっと抱え上げました。そして、仲間の一人がユイナに肩を貸しながら、みんなで、崖の上の「カフェ南十字星」へと、急ぎました。
カフェの扉を開けると、ランプの優しい灯りの中で、金城のおばあが、静かに祈りを捧げていました。ユイナたちの姿を見ると、そのしわくちゃの顔を、くしゃっと歪ませます。
「おお……おお、よくぞ、帰ってきたさねぇ……。神様は、ちゃんと見ていてくださったんだねぇ」
おばあは、ユイナを、本物の孫にするように、ぎゅっと抱きしめてくれました。その腕は温かく、そして少しだけ震えていました。
「お客さんのことは、心配ないさね。あんたの言いつけ通り、毎日、薬草を飲ませていたからね。少しだけ、呼吸が楽になったようだよ」
「ありがとう、おばあ……。本当に、ありがとう……」
ユイナは、おばあの優しさに、また涙がこぼれそうになるのを、必死でこらえました。
漁師仲間たちは、、店内の空いていたスペースに毛布を敷き、その上へ海人をそっと寝かせてくれました。ユイナのカフェには、今、二人の男性が、深い眠りについています。ひとりは、はるかな海の向こうからやってきた、名も知らぬ客人。もうひとりは、ずっと隣で彼女を守ってきてくれた大切な友達。その二人が、こうして並んで横たわっている光景は、ユイナの心に不思議な、そしてとても重い感慨をもたらしました。私のお仕事。その意味が、ずしりと、彼女の両肩にのしかかってくるようでした。
仲間たちは、名残惜しそうに、それでも「何かあったら、すぐに呼べよ」と声を残して帰っていきました。
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