第4話 傷を抱いた客人
その夜、風はいつもと違うお喋りをしていました。
ユイナが営む崖の上の「カフェ南十字星(ぱいじぶし)」は、もうお休みの時間。ランプの灯りが優しく店内を照らす中、彼女はカウンターを磨く手を止め、窓の外の闇に耳を澄ませました。
(……来る)
いつもなら陽気な南風が、今夜はまるで緊張したようにユイナの心に直接囁きかけます。(ユイナ、遠くから、とても強い魂が来る。傷ついて、迷って、助けを求めている……)
心臓が、とくん、と跳ねました。ただの嵐じゃない。風が運んでくるのは、魂そのものが引き裂かれるような、悲痛な叫び。ユイナはごくりと喉を鳴らし、父から貰ったワインカラーのカチューシャを無意識に握りしめます。
その時です。ドンッ、と重い何かが店の扉に叩きつけられる、鈍い音が響きました。
「ひゃっ!?」
ユイナは思わず肩を震わせます。こんな嵐の夜に、一体誰が……?
ランプを手に、おそるおそる扉へ近づくと、隙間から吹き込む風が、潮の匂いと共に、今まで嗅いだことのないほど濃い血の香りを運び込みました。
震える手で、ゆっくりと扉を開ける。
そこに、ひとりの男性が倒れ込んでくるではありませんか。
「わわっ!」
思わず支えたその体は、嵐のせいだけとは思えないほど、氷のように冷たいのでした。月明かりに照らされたその人は、泥と血に汚れていてもなお、まるで物語から抜け出してきた王子様のように整った顔立ちをしています。けれど、その固く閉じられた瞳からは、底知れないほどの深い悲しみが滲み出ているようでした。
(痛い、苦しい、消えてしまいたい――)
彼に触れた指先から、魂の悲鳴が濁流のように流れ込んできます。あまりの激しさに、ユイナは一瞬めまいを覚えました。
「大変! しっかりしてください!」
これは、私に来た「お仕事」なんだ。お父さんの言葉が、頭の中で強く響きます。ユイナはそう思うと、不思議と力が湧いてきました。
よいしょ、と小さな体で一生懸命に彼を運び、店内のソファにそっと寝かせます。上等そうな服を脱がせると、彼の体にはおびただしい数の傷跡が刻まれていました。古いものから新しいものまで、まるで絶え間ない戦いの歴史を物語っているかのようです。
(この人、いったい、どんな人生を……?)
ユイナは胸のドキドキを抑えながら、救急箱を広げ、慣れた手つきで手当てを始めます。温かい薬草のタオルで体を拭いてあげると、彼の強張っていた体がほんの少しだけ緩んだように思えました。
(ユイナ……その者は、ただの人間ではないぞ)
風さんが、心の中で心配そうに囁きます。
(わかってる……でも、だからこそ、放っておけない)
ユイナは心の中で強く応えました。
(島の人たちのちょっとした悩み事を、特製のハーブティーや星砂のおまじないで軽くしてあげるのとは訳が違う。この人は、もっとずっと深くて、暗い闇を抱えている。お父さん直伝の薬草の知識と、お母さんから受け継いだ不思議な力、その両方を使わなくちゃ。)
手当てを終え、彼の寝顔をそっと覗き込む。眠っているはずなのに、その眉間には深い皺が刻まれ、血の気の失せた唇は何かを渇望するように微かに開いている。その姿を見ていると、ユイナの胸の奥がきゅっと締め付けられました。
怖い。でも、それ以上に、この人を助けたいという気持ちが強く湧き上がってきます。
(大丈夫。この人は、私が助けるから)
ユイナは、心の中で風さんに、そして自分自身に、強く誓うのでした。
瑠璃色の海の向こうからやってきた、謎だらけの客人。彼の意識はまだ、深い闇の底に沈んだままです。ユイナの人生で初めての、そして最も大きなお仕事が、静かに幕を開けたのでした。
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