第12話 倭国大乱から神功帝による、中央集権確立

[newpage]#01 両帝陛下は、同権である

 倭国大乱は、神功帝によって、征伐によって治められた。


 日ノ本六十余州が、中央集権国家として、統治体制となるのは、神功帝以降ということになる。


 倭国大乱という言葉は、崇神帝より始まる軍事侵攻、日本征覇による動乱であり、倭国が仕掛けた動乱である。つまり、神武東征以降、出雲王国、王国、大丹波王国、エツ王国といった、諸国家が緩やかな連合王国であった時代があった。崇神帝の軍事侵攻と日本征覇は、畿内ヤマトによる、中央集権国家の軍事侵攻であり、倭国大乱そのものである。倭国大乱が治まらないのは、軍事侵攻を実行しているのが、畿内ヤマトであり、日本国土が広いことを示している。


 日本征覇期における、戦乱の系譜は、全国に点在する前方後円墳の分布から、想定される。征覇期の日ノ本では、天皇皇后両陛下は、軍政双方で同権の時代である。主上スメラノミコト御杖代スメラヒメノミコトによる、統治体制と考えていただければ、理解しやすい。どちらも、統治する尊い方を表し、共同統治に近い体制であったことを示している。


 日ノ本の場合、女系の強い記憶文明から男系が強くなる記録文明への移行期を示している。知識の継承は、稗田阿礼をはじめとした、神巫部カンナギによる記憶文明の継承でもあった。ケルト


 崇神帝の娘、豊鍬入姫命に始まり倭姫命と繋がっていく、御杖代姫巫女の系譜があり、日ノ本における、卜占を含めた祭祀を司っていた。御杖代姫巫女=卑弥呼の時代が、御杖代姫巫女の時代であった。卑弥呼の特定が困難なのは、卑弥呼よばれる、御杖代ひみこが、一人ではないからである。


[newpage]#02 初代女帝、神功帝

 仲哀帝が崩御したことで、主上スメラノミコト御杖代スメラヒメノミコトの権限が、神功帝に集中することになった。古代において、全権を握ったのが、神功帝なので、江戸時代まで卑弥呼を神功帝と認識していた理由である。


 魏志倭人伝の時期、日本における考古学的時代考証で、卑弥呼を特定し難いのは、豊鍬入姫命に始まり倭姫命と続く、御杖代スメラヒメノミコトの誰が当たるかが確認できないためである。この時期は、日本の拡大期であり、日本征覇という、大乱の時期でもあった。


 最終的に伊都によって、倭の統治が定まったとされるのは、伊都が、主上スメラノミコト御杖代スメラヒメノミコト権限を兼務した結果であるとすれば、神功帝が伊都ということになる。


 神功帝が伊都であり、日ノ本初代女帝であるとすれば、日ノ本における、中央集権体制の確立となる。


 卑弥呼が御杖代スメラノミコトと特定ができなくなったのは、皇統譜令(大正15年皇室令第6号)による、神功帝の帝位剥奪にある。摂政という言葉で誤魔化し、古代における男性が保有していた主上スメラノミコトとしての御立場、古代女性が保有していた御杖代スメラノミコト御立場が、仲哀帝の死によって神功帝に集中した結果、応神帝は、主上スメラノミコトの御立場であったが、実権を有していなかったと判断できる。


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日ノ本の始まり Ittoh @Ittoh

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