元腐女子令嬢、愛のない契約結婚のはずが旦那様に沼落ち中です!?

よつ葉あき

1.愛のない結婚と、銀の尻尾


結婚から数週間が過ぎた、あの夜──。


眠れなかった。

理由は分からない。ただ胸の奥がざわめき、心臓の鼓動が耳の奥で響く。

落ち着かないまま、気づけば布団を抜け出していた。


廊下を抜け、庭へ出る。

夜風が梅の香を運び、白い花びらがひらりと舞い落ちる。

月明かりが、その一枚を銀糸のように照らした。


──そこで、見えた。

ふわりと揺れる、銀色の……尻尾。


「……犬?」


かすかな声は夜に溶けた。


逃げたら二度と見られないような気がした。

追うべきではないと分かっているのに──足は勝手に前へと進む。


尾はゆるやかに奥へ消え、私は夢中で後を追った。

灯の漏れる小道を抜けるたび、梅の香りが濃くなる。

砂利を踏む音が、自分の呼吸よりもはっきりと響いた。


……あれ? ここ、どこ?


見覚えのない渡り廊下。

煤けた格子窓。

空気の温度が一段下がったような、ひやりとした感覚。


その瞬間、脳裏をよぎる低く澄んだ声。



「──夜、離れには近づくな」



……離れ!?

心臓が跳ね、喉が詰まる。


踵を返そうとした時──

先の灯の下で、人影が立ち止まり、ゆっくりと振り返った。


銀色の獣耳。

ぴんと立つ耳が月光を縁取り、長い尾がゆったりと揺れる。


銀次ぎんじ様……?」


彼が、ここに居るわけがない。

そんなことは分かってるはずなのに、思わずあの人の名前が口から零れた。


金色の瞳が細められ、吐息が白く夜気に溶けた。


その視線は、逃げ場を与えなかった。

ただ静かに──私を捕らえている。


月明かりだけが、その異形を白く照らしていた。





 ◆



──私は今日、結婚をする。


昨日までの雨が嘘のように晴れ渡り、春の光が庭に降り注いでいる。

普通なら「晴れて良かったね」と笑い合うところだろう。

けれど、私たちは一言も交わさなかった。


式は淡々と進む。

白無垢の袖がゆらりと揺れ、梅の香りが冷たい空気に溶ける。

隣に立つ新郎──神宮寺じんぐうじ れん様は、湖面のように揺らぎのない瞳で前を見据えていた。


美しい。でも、遠い。


そして今朝の光景が蘇る。

玄関で見送ってくれた、大切な家族──。


父は目を伏せ、母は涙をこらえ、弟は唇を噛んで俯いていた。

たまき……すまん……」

かすれた父の声が、胸を締めつける。


我が家は祖父の代で事業に失敗して以来、借金と共に生きてきた。

去年、父が“友”と信じた人物に騙されるまでは、どうにか持ちこたえていたのに。


「……神宮寺様が助けてくださる。ただし、一つ条件があってな」

差し出された封書には、こう記されていた。



『借金はすべて私が払う。

条件はひとつ──あなたの娘を、娶りたい。』



断れば……私はどんな扱いを受けるか分からぬ所へ売られ、弟は学業を諦め、家も失う。

だから笑って頷いた。


「ありがとうございます。

これでみんなが幸せになれるのなら……喜んで」


十九歳の娘が三十過ぎの男性に嫁ぐ──普通なら泣く場面だろう。

けれど私は泣かなかった。なぜなら──前世の記憶があったからだ。


前世の私は令和日本を生きた筋金入りのオタク腐女子。

恋は二次元で完結、三次元の恋は推し活の妨害。

趣味に全力を注ぎ、独身のまま病で死んだ……はずだった。


目を開けたら、この世界にいた。

明治や大正の面影を残す街並み。

魔術や鬼、妖怪がかつて存在したという国──今はもう滅びてしまったけれど。


中途半端だなぁ。

異世界転生なのにスキルなし、魔法なし。

でも──ひとつだけ、かけがえのないご褒美があった。

優しい家族だ。


令和の私は家族を早くに失った。

でも、この世界では、お人好しで優しい父、美しい母、十歳下の弟がいる。

私が夢見てきた「家族の形」が、ここにはあった。


だからこそ、家族を救える結婚なら惜しくない。

そして──私は、この家の“妻”になった。


式を終え、神宮寺家の屋敷へ。

梅の花咲く庭で、蓮は静かに告げた。


「互いに干渉はしない。金が必要なら言え。

夜を過ごす離れに近づかない限り、家も金も好きに使えばいい。

……夜は──顔を合わせる必要もない」


──つまり、そういう関係は一切なし。

変な性癖の可能性も……ゼロ。少なくとも私に対しては。


神かよ旦那様。

お金もくれる上に、自由までくれるなんて。


私の中で好感度が爆上がりした。


それから数週間、本当に何も起きなかった。

寝室も食事も別、すれ違うことすらない。

三食おやつ昼寝つき、仕送りも順調。


そして──あの夜。


庭で見つけた銀の尾を追い、夢中で迷い込んだ。

ここが“離れ”だとも知らずに。


月明かりの下、金色の瞳が静かに私を射抜く。

吐息が夜に溶け──世界の色が、変わった。


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