第6話 数式が壊れる ― 選ばれなかった未来

それは、いつものように駅へ向かう朝のことだった。


通りすがりの会社員の頭上に、いつもと変わらない選択肢が浮かんでいた。


【選択肢:右折する / 直進する】

→ 右折:82%

→ 直進:18%


ただの通勤ルートだ。

大したことのない選択肢。いつものように、ぼんやりと眺めていた。


しかし、彼は“直進”した。


……え?


確率が外れることは、これまでもあった。

茜の事故だって、そうだった。

でも——今日のこれは、どこか違う。

ふと心に引っかかる違和感をぬぐえなかった。


学校に着いてからも、似たような“ズレ”が続いた。


【立ち上がる:7%】だったクラスメイトが、突然席を立つ。

【発言する:12%】だった女子が、手を挙げて発言する。


ひとつひとつは、大した出来事じゃない。

でも、こうも続けて“外れ”が起こるなんて…。


見えているのに、未来がズレていく。

その感覚に、地面が揺れるような錯覚を覚えた。


放課後。


藤崎と廊下ですれ違った、その瞬間だった。


——過去の映像と音声が、一気に襲ってきた。


かつて見た数式。そして、その“もうひとつの結果”。

選ばれなかった未来の断片が、連続的にフラッシュバックしてきた。


思わず、足がもつれた。


(あのとき、私が“見なかったほう”を選んでいたら……)


鞄の中からノートを取り出す。

記録していた“あの日の選択肢”を読み返す。


選ばれなかった選択肢ばかりが、目の奥に残っている気がした。


翌日。


教室で、突然藤崎が口を開いた。


「たぶんそれ、壊れてきてるだけだよ」


全てを見透かすような、その声。

一瞬、息が止まった。


結月はなんとか言葉をひねり出す。


「……知ってたの?」


拍子抜けのような質問しか出てこなかった。

藤崎は何も言わず、じっと目を見つめていた。


物理の授業中。


ふいに、あの日電車で見た妊娠中の女性のことが、映像のようによみがえる。


【無事に出産:24%】/【死産:76%】


その数式。あの目。ふくらんだお腹。

すべてが、突然脳内に浮かび上がった。


息が詰まった。脈が速くなる。

汗がにじむ。

何とか抑えようと、深呼吸をした。


(あのとき、私は“見て、逃げた”。)


選ばれなかったほうの未来。

それが、離れない。


呼吸が落ち着いたころ、周囲を見渡した。


クラスメイトたちの頭上に浮かぶはずの数式。


——どれも、壊れていた。


「□□?%」「◇◇/××→##%」

意味不明の文字列。崩れた記号。乱れた矢印。


「……なにこれ」


思わず声が漏れた。


周囲が一斉にこちらを見た。

「どうしたの?」「大丈夫?」

教師も心配そうに声をかけてくる。


結月は、なんとか言った。


「すみません、大丈夫です」


それが精いっぱいだった。


(大丈夫、大丈夫、大丈夫……)


心の中で、何度も繰り返した。


家に帰り、夜になってからノートを開いた。


整然と記録された選択と確率の一覧。

日付、行動、数字、結果。


それらは本当に意味があったのか?

見ていたから、変えられた?

見なかったら、何かが違った?


思考が、ぐるぐると空回りする。


——選ばなかった未来ばかりが、私の中に残っている。


ノートは、最後の1ページになっていた。


結月はペンを取り、ゆっくりと書いた。


「見えることが苦しい」


その言葉が、どこか自分を遠くへ連れていくような気がした。


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