DREAM INCUBATIONの初期案

1



エピローグ ――百鬼夜行の姫――


 


  愛欲がらみの犯罪を立て続けに見せられると、恋愛という、一つ一つ

  が特別で一回限りと思われるものが、実は誰にでもどこにでもいつで

  もあるごくごく陳腐なものだと思い知らされる。


  (中略)


  「明日が来るのがこわいの」と泣きながらすがりつく夢は、日曜日の

  ようなもの。

  月曜日はその後必ず来る。そのような夢は日常の中で、日常を送るた

  めに癒し手として用意されたものであり、日常の一部分に過ぎない。


  目覚めなさい。

  現実から目覚め、「私」から目覚めなさい。

  もっと深く夢見たいのなら。


         (二階堂奥歯『八本脚の蝶 2001年10月25日(木)』)





「ねぇ――」


 呼びかける鎧瀬あぶせの声に、ダイニングキッチンに立つ封月ふうづきが視線を向けた。

 キッチンカウンター越しのリビングに据えられたライトグレーのソファー。鎧瀬は読みかけの本に指を挟んで、ぼんやりとニュースチャンネルを眺めていた。短く切り揃えた髪からピアスが揺れている。


「――アンタさ、百鬼夜行を呼び出したこと覚えてる?」


「鎧瀬さんと出会った日の事ですよね。……何度聞かれても、なんにも覚えてませんよ」


 そう答える封月の細い眉毛が弱々しい線を引く。ふわりとした長い髪を束ねた彼女は、不思議と困り笑いが似合う人だった。

 封月は鎧瀬の眺めているニュースチャンネルに視線を移し、「……もう四年も経つんですね」と、感慨深げに呟く。


「あっという間だよ、ホント……」


 特集の組まれているテロップにはこう書かれている。


 〈霊素可視化現象から四年 〜復興の歩みと未だ残る傷跡〜 〉


 ――『極微細ヨクトコンピュータ(通称「浮遊バクテリア」)』は、二十二世紀を代表する最先端テクノロジーとして開発された。

 ナノスケールPCが大気に散布され、身近ではホログラム広告に用いられ、果ては衛生規模であらゆる情報を収集したりと、革新的な技術として人々から受け入れられていた。

 しかし、四年前『*世界同時多発集団幻覚E.V.E.N.T.』が発生。史上最大の人為災害となったのである。


 あらゆる場所、あらゆる時間、あらゆる人種を超えて世界中の人間が夢と現実の境界を彷徨うこととなった。

 私たちはかつてない夜を経験した。

 そんな、忘れられるはずがない日に、忘れられない出会いをしたというのに――


「……私だけ、か……」


 鎧瀬は一人呟いて、ソファに身を預ける。

 日曜の夜。リビングは封月の作る夕食の香りで満たされていた。


 ――私だけ……私だけが、あの夜を覚えている。


 霊素可視化現象が発生したあの日、封月ふうづき端月はづきは『幻覚』の中心に居た。

 魑魅魍魎の祲気しんきを束ねる姫……それが、封月に対し鎧瀬あぶせあかりが抱いている第一印象だった。



――――❖――――――❖――――――❖――――


*注釈:世界同時多発集団幻覚E.V.E.N.T.――正式名称は Enhanced Visual Emergence through Network Turbulence(ネットワーク撹乱による拡張視覚出現現象)の略称。



第一話 四年前の邂逅と二人の日常

 


 真っ暗闇のビル街に、かそけき穢物けものどもの気配……。

 乗り捨てられた車で混み込みとした道路では、一際異様な光景が広がっていた。


 赤信号の明滅している交差点。飛散したガラスがきらきらと炎を反射して輝いている。

 すぐそばの建物は車両が突っ込み、火を吹いて炎上している。これだけでも異様ではあるのだが、それだけではない。

 車を踏み潰してしゃがみ込んでいる巨大な女がいるのだ。

 その背丈は交差点を跨ぐ歩道橋すら超えている。


 巨大な女は、よく見ると体が透けていた。幻覚か、幽霊のような存在だった。

 夜の闇によってかおは窺えない。自我というものが存在しているのかさえ怪しかった。

 誰かが制作し、路上に放置したオブジェなのだと言われたほうが、まだ信じられる。

 それほどまでに現実離れした光景だった。


 女幽霊は動き出す。


 巨大なてのひらがそっとアスファルトに触れ、緩慢な動作で四つん這いに前進を始めた。

 長い黒髪が枝垂れ柳のようにゆらゆらと揺れて、渋滞を作る車の列を呑み込んでいく。


 ふと気付けば、大勢の妖怪が目の前の車道を行進している。

 その賑やかさといったら、鼓笛の音でも聞こえてきそうなほどに騒がしい。

 子供のような姿をした単眼のわらべや、苦痛を堪えているかのような形相の赤鬼。その他にも火車かしゃや二足歩行の鼠の姿もあった。


 総勢およそ五百体に及ぶ、魑魅魍魎の百鬼夜行。

 目撃した者の正気を奪う圧巻の行列。

 その先頭を歩く娘こそ、穢物けものを率いる幻覚の姫君ひめぎみ


 大停電に見舞われた都市の暗闇と相反して、姫の周りだけは絢爛豪華と形容するにふさわしい灯りを引き連れきらめいていた。百鬼夜行は河川を横断する大橋へと向かうところである。


「止まりなよ……穢物けもの共」


 彼女らの行手――橋梁きょうりょうの真ん中では、待ち受けるように一人の女が立っていた。

 ただの人間ではなさそうだと気付いたのは花魁おいらん仕草の九尾と、白装束の雪女である。百鬼夜行の先頭、左右にはべる対照的な出立ちの二体が姫を庇うように手で制し、警戒に足を止めた。


 橋の上で待ち伏せているその女は、集団幻覚の夜の中で理性を保っていた。それだけではない。百鬼夜行を祓う心得があるとでも言いたげな視線で九尾と雪女を睨み返している。

 現に、腰に帯刀している鞘を左手に握り、空いた右手が今にも抜刀せんとしていた。


 九尾と雪女は、それぞれ鬼火と吹雪を纏いながら臨戦態勢に移る。……しかし、次の刹那には首が転がって霧散した。


 おぼろ月夜の闇にひらめく太刀筋――橋に立っていた女は恐るべき速さで百鬼夜行に斬りかかり、次々と首を落としていく。


 妖怪共は何が起きているのか理解できないままに断ち切られ、五百を超える行列はあっという間に肉体を崩壊させ、霧となって風に流れる。


 後に残るは一人の娘。

 白い振袖を身に纏い、狐面をつけた少女。

 此度こたびの異変の首魁しゅかいであり、祲気しんきを束ねる姫と思われたが……どうやら燈の予想は外れていた。


 少女の首に刀を押し付けるすんでの所で思いとどまる。

 命に危機に対してあまりにも無防備に首を晒している娘は、うつらうつら眠っていたのだ。


 「意識が……ない……?」


 女は慮外りょがいの事態を前にして思わず声が漏れる。

 驚くべきことに少女はただの人間らしかった。

 糸が切れたように倒れる少女を抱きかかえる。


「ん……」


 微睡みから目覚める少女の瞳が薄く開いた。


「……あなた、だぁれ……?」


 女は戸惑いながらも応える。


「私は、鐙瀬あぶせあかり……アンタこそ何者なんだ?」


「はづき……。封月ふうづき端月はづきだよ……」


 少女はそれだけ応え、再び気を失った。

 二人の邂逅は、あの日このようにして果たされたのだった――





「……やっぱり何度聞いても信じられませんね。そんなことがあったなんて」


 鎧瀬から四年前の話を聞き終え、封月は幸の薄そうな笑顔で眉を困らせている。

 自分の身に起こった出来事のはずなのに、どうしても思い出せないようだ。


「鎧瀬さんの活躍見たかったなぁ……」


 封月は夕飯の片づけをやりながら、うっとりと妄想にふける。


「よしなよ、見せもんじゃない」


 鎧瀬はなんだか照れ臭くなって視線を反らし、言葉を続けた。


「……世界が大混乱の三ヶ月間、アンタはずっと眠ってた。記憶がないのはこれが原因だろうね」


 百鬼夜行という大規模な幻覚の中心にいた彼女は精神的にも体力的にも疲弊していたらしく、何の因果かその世話をしたのが鎧瀬燈である。今ではなし崩しにルームシェアの関係に落ち着いている。


「じゃあ、私は救急車で運ばれたんですか?」


「そんなわけないでしょ。どこもかしこも幻覚と大停電なんだから。警察も病院も、まともに機能してなかった」


 封月が目覚めるまでの間、鎧瀬は様々な困難を乗り越えなければならなかった。

 浮遊バクテリアによって姿を現し世界を侵食する穢物の群れを何度も祓い、封月を背負いながら都市機能の停止している街を彷徨さまよう。ネットワークは常にパンク状態、頼れるような機関も存在せず、幻覚が蔓延る中では情報を収集することも叶わない。


「……私がアンタを背負って、ぐちゃぐちゃに荒れ果ててる病院に忍び込んだんだ」


「……大丈夫なんです?」


「医者も患者もみんな幻覚のせいでゾンビみたいになってたんだから、仕方ないだろ」


「えっ、それなら……点滴とかも?」封月は訊ねる。私の看病を全部一人でやったのか、と。


「当然」


「すごい……!」


 封月は音の鳴らない拍手を送り、賞賛の眼差しで燈を見つめた。

 正規の手続きではない荒治療だが、間違いなく命の恩人である。


「何でそんなことできるんですか? そもそも妖怪を切ったのだって普通じゃないですよね??」


「妖怪じゃなくて穢物けもの。『穢れた物』と書く」


「……ケモノを切れるのは何でですか?」


「決まってる。それが私の仕事だからだよ」


 鎧瀬はソファに座ったまま背を逸らして誇らしげな顔をして続ける。


「この世に迷い出る穢物を祓う。私の家は昔からそういう仕事をやってるの。世を騒がせている浮遊バクテリアの何が問題かって、もともと肉体を持ちえないはずの隠世かくりよの存在が、あの装置のおかげで現世うつしよに顕現するための姿を手に入れたことだよ。

 その上、封月アンタは存在そのものが『門』なんだ。状況が整えばいつまた百鬼夜行を呼び出すかわからない」


「あらまぁ……」と、封月は他人事のような相槌を返す。


「わかってないな?」


「へへ、あんまり。でも面倒なんだろうなっていうのはわかりますよ」


 危機感がない……そう思いながら鎧瀬はニュースの方をちらりと見る。浮遊バクテリアに関する特集はもう終わっているようだった。


「……ま、心配ないさ。その時のために私がいるんだし」


「そうですね! 頼りにしてますよ鎧瀬さん」


 目を細めて莞爾にっこり

 封月は隣に座って人受けの良い笑顔を向けた。


「私の命、預けちゃいますから」


「ん。はいはい」


 軽くあしらってみせた鎧瀬だが、内心穏やかではなかった。

 耳が赤くなるのを自覚して、ひっかけていた横髪をくしゃくしゃと掻いて隠す。


 ――その顔、ズルいよなぁ……。





 鎧瀬さんに聞いた話では、百鬼夜行を祓った後も幻覚が晴れるということはなかったのだそうです。

 そのことから、この幻覚災害の原因が私ではないということがわかりました。各地でも……いえ、全世界で同様の現象が起きていたのです。


 ――結局、世界が集団幻覚から抜け出すまで三ケ月もの長い期間を要しました。


 どのようにこの不可解な状況を終息させたかと言えば、各国政府はネットワークの切断によって発生する経済的損失と幻覚災害によって発生する人的損失を天秤にかけ、旧規格のネットワーク回線に対して稼働停止措置を講じたのだそうです。……難しいことはわからないので、これも鎧瀬さんの受け売りなんですけどね。


 〈世界がどうだ〉とか、〈経済が云々うんぬん〉とか、あんまり興味はありません。

 病室のベッドの上で聞かされたことが、私にとって最も重要なことでした。

 それは、幻覚災害のせいで家族や友人が亡くなったという報せです。


 友人を轢いた車の運転手は、いわく、『くるみ割り人形に襲われていた』のだそうです。アスファルトの道路をばりばりと嚙み砕く巨大な顎から逃げるのに必死だったので、『人を轢いた覚えはない』と言います。


 家族の死因は窒息死でした。現場にいた方は『津波に襲われ天井まで水で満たされたのだ』と言います。場所は三階建てのショッピングモールです。大勢の遺体がして、その中に両親もいたそうです。


 幻覚で人が死ぬなんて、私には実感がありませんでした。

 ですがこれこそが浮遊バクテリアの脅威なのです。

 視覚、聴覚、触覚……五感に出鱈目な情報が注ぎ込まれたとき、人の精神は簡単に正気を失ってしまう。なす術もなく悪夢に呑み込まれる。


 百鬼夜行の夢から覚めたとき、馬鹿みたいな訃報を聞かされて、私はただただ困惑しました。

 どれほど嘘みたいな証言でも、受け入れがたくても、それが現実だったんです。


 私は心ここに在らずだし病院側もシステムが復旧していないので、どのような手続きで退院したのか覚えていません。私は一人寂しく災害に荒れ果てた街を歩いて、家に帰りました。


 がらんとした我が家。幸いにも幻覚の被害を免れたその家は、嘘みたいに変わり映えのない玄関でした。ただ違うのは、その家に活気がなく、耳鳴りがするほど静まり返っているということです。

 玄関扉を開けて帰宅すると、奥に続く廊下が見えます。窓から射す西陽も、何の変哲もない景色です。

 それなのに、なんだか私には彩度が失われて見えました。


「ただいま……」


 呟いた声が廊下に反響して、寂しさがいっそう強まります。

 私は声に出したことを後悔しました。

 いそいそと靴を脱いで、階段を駆け上がって自室に避難します。


 ――全部悪い夢みたい……。


 毛布にくるまって目を強くつむると、瞼の裏に七色の靄が広がりました。


 もしかしたらこの現実と思われる時間も夢か幻覚で、明日には全て元通りかもしれない。次に目を開いたときには父と母がリビングにいるかもしれない。……なんて、私は夢想して、毛布から顔だけ出します。


 カーテンの隙間から差し込む西陽が、埃を照らしています。

 現実ゆめから醒める気配はありません。


 ――時間が無為に流れていく……。


 明日から、どうやって生きていけばいいのでしょう。

 私は何にも考えられそうにないです。


 私の生活は、幻覚に全部奪われました。

 馬鹿みたいな現実だけがいつまでも続きます。


 ――もう、いっそわたしも……。


「よぅ、邪魔するよ」


 死んでしまいたいという考えがぎったとき、玄関から女の声が聞こえてきて私はどきりとしました。知らない人です。泥棒かも知れません。殺されるかも……。


 床を踏む足音が廊下を進み、階段を上り始めました。

 このままでは私の部屋に入ってきてしまいます。


 ――死ぬのは怖い……怖い、けど……一人で生きていくのも怖い……。


 ベッドにうずくまって私は眠っている振りをします。

 部屋の扉が開かれて、私の背中に視線が注がれている気配を感じました。


「おーい。居るんなら返事くらいしなよ」


 泥棒さんの声は、想像していたよりも気安いです。

 私は戸惑いながらも狸寝入りを続けます。


「ずいぶん落ち込んでるみたいだな。


 ――ひゃっきやこうの、おひめさま……?


「……だぁれ……?」


 私は恐る恐る返事をします。毛布越しの声がくぐもっていました。


「忘れたのか。鐙瀬燈だよ」


 鎧瀬さんは続けて「名乗るのは二度目だ」と言いました。

 でも、私は彼女のことを知りません。

 泥棒じゃないなら、もうどうでもいいんです。


「……ほっといてください」


「へいへい」


 鎧瀬さんは何の目的でやって来たのかわかりませんでした。

 何故か私の家に転がり込み、日が暮れても、一夜が明けても傍にいてくれたんです。

 もしかしたら自分の帰る家が壊されてしまったからここに寝泊まりに来たのかも知れません。


 一つ確かなことは、鎧瀬さんはとても優しい人だということです。


 心神喪失状態の私を支え、寄り添ってくれた一年。

 会話ができるようになるまでには、さらに半年。

 笑顔で話せるようになるまで、さらに五年。


 鎧瀬さんの献身がなければ、きっと私は生きていけませんでした。

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