怪異

 商店街のネオンが、黄昏の空気に溶け始めていた。一日の終わりの疲れを背中に乗せ、私は駅へと続くアーケードを足早に歩く。帰りを急ぐサラリーマンたちの雑踏は、いつもより薄く、どこか虚ろに感じられた。陽が完全に沈み、青みがかった闇が足元から這い上がろうとする「逢魔が時」だった


 ふと、背後に異質な重さを感じた。


 ドスン……


 まるで濡れた土嚢を地面に叩きつけるような、鈍く重たい音。歩みを止め、耳を澄ます。


 ドスン……


 間隔は一定ではない。不規則に、しかし確実に、こちらの足音を追いかけるように近づいてくる。心臓が肋骨を打ち始めた。周囲の人の気配が、一瞬で遠のいたような気がした。誰も気にしていないのか?この不気味な響きに?


 振り向くべきか、駆け出すべきか。恐怖が足首を掴み、思考を麻痺させる。その時、またしても――。


 ドスン……ドスン……


 あまりに近い。息遣いすら感じられるような距離。背筋に冷たい汗が走る。理性が「見るな」と叫ぶ。だが、もう遅い。首の筋肉が、ギシギシと軋みながら、ゆっくりと後ろへと捻じれていく。


 アーケードの天井を抜けた先、茜色の残照がまだほんのり残る西の空に、白く浮かぶ三日月が、かすかに輝いていた。


 そして、その月明かりが、ほんの一瞬、通り過ぎようとする「それ」の横顔を掠めた。


――人間の形をしていた。背広のようなものを着ているようにも見えた。しかし、輪郭が歪んでいる。皮膚というより、湿った土か、あるいは腐敗しかけた樹皮のような質感。頭部は、肩幅に対して明らかに小さく、その上に載っているものは…顔と呼べる代物ではなかった。ぼんやりとした窪みが二つ、口元にあたる場所が不自然に裂けているだけ。目玉など、どこにもない。


 しかし、それ以上に私の魂を凍りつかせたのは、その「歩き方」だった。


 月明かりが当たった一瞬、影が伸びた。その影には、二本の足があった。だが、「それ」の腰から下は、歩くというより、巨大な何かが蠢くように、不気味なうねりを見せていた。まるで数えきれないほどの節くれだった触手か、あるいは太い根が絡み合い、地を這っているように…。影は、本体の輪郭とは全く異なる、底知れぬ気味悪さを帯びていた。


「それ」は、私の横を、ゆっくりと通り過ぎた。


 ドスン……


 腐臭とも土の匂いともつかぬ、生々しい臭気が鼻を刺した。通り過ぎる際、小さな「顔」が、裂けた口元をわずかに動かしたように見えた。音はなかった。ただ、月明かりの中、その裂け目が、不気味な黒い闇を見せただけだ。


 足が震えていた。息が詰まる。通り過ぎた「それ」の背中を、月明かりが照らし続ける。背広のような布は、その下で蠢く「何か」の動きに合わせて、不自然に歪み、波打っている。影は、アスファルトの上で巨大な、得体の知れない怪物のように蠢めいていた。


 ドスン……ドスン……


 重い足音は、商店街の先、急速に濃くなる闇の中へと吸い込まれていく。人々の話し声、店のBGM、車のエンジン音…すべての日常の音が、突然洪水のように耳に押し寄せてきた。私はその場に釘付けになり、冷たい空気を必死に肺に押し込む。


 通り過ぎた…? 通り過ぎただけ…?


 振り返った。闇が深まる商店街の彼方には、もう何も見えない。月だけが、先ほどよりわずかに高く、冷たく白い光を無関心に降り注いでいる。


 その光の下で、私は「あれ」の真の姿を見てしまった。


 あの瞬間、月明かりがなかったら…。いや、月明かりがなかったとしても、あの重い足音と、あの臭いは…。


 私は震える手でスマホを取り出し、妻への「今から帰る」というメールを打った。文字が震えてうまく打てない。背筋が、今も冷たい月の光に撫でられているような気がしてならない。次の逢魔が時に、この街を歩く時は…月が出ていない夜を選ぼう。そう強く思った。

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