数える

 夕暮れ時、茜色が古びた木造アパート「茜荘」を鈍く染めていた。

 

 私は今日、引っ越してきたばかりだった。荷物の山に囲まれ、唯一片付いた自分の部屋に腰を下ろし、窓の外を見やった。正面に、このアパートの心臓部とも言える急勾配の共用階段がそびえ立っている。

 

 薄暗がりの中、木の段は黒ずみ、手すりは古いペンキが剥がれ、無機質なまでの沈黙を保っていた。


「はぁ…」


 深いため息と共に立ち上がる。これから何度もこの階段を上り下りするのだと思うと、腰が重い。とりあえず、買い出しに行かねば。ドアを開け、共用廊下に出た。黄昏の光はここまでほとんど届かず、薄暗い。階段の入り口は、まるで異界への門のように闇をたたえている。


 一段目を踏み出す。古い木が軋む、鈍い音。二段、三段…。ふと、自分の足元に目を落とした。夕陽の名残が、西向きの小さな窓から細く差し込み、私の長い影を階段の壁に落としていた。


 その影が、私の動きに忠実に、しかしどこかぎこちなく段を上っているように見えた。

気のせいか、影の動きが一瞬、私の実際の足取りより半歩だけ遅れているように感じた。


「…疲れてるんだな」


 自分に言い聞かせ、五階まで続く階段を上り続ける。四階の踊り場で一息ついた。ふと、下を見下ろす。


 薄暗い階段の谷底。何もいないはずなのに、自分の息遣いと、遠くの生活音以外に、微かに…かすかな足音のような気配が聞こえた気がした。


 振り返るが、闇はますます深まるばかりで、何も見えない。背筋がぞわりと冷えた。


 買い物から戻ったのは、すっかり日が落ちた後だった。アパートの玄関灯は一つ切れており、階段口はますます深い闇に沈んでいた。懐中電灯のアプリで明かりを灯し、一段目を踏み出す。今日は特に疲れている。無意識に、段数を数え始めた。


 一段、二段…十段…十五段…。


 いつもの五階までの段数は十七段だ。昨日、荷物を運びながら数えて確かめた。今日も十五段を過ぎ、残り二段だ。…が、いつもより少し長く感じる。十六段目を踏み、次が最後…と思いきや、まだ段がある。十七段目を踏む。…そして、十八段目がある。


「…え?」


 足が止まる。心臓が一瞬、跳ね上がった。懐中電灯の光を揺らしながら、足元を照らす。確かに、十七段踏んだはずなのに、目の前にはもう一段、木の段が闇の中に横たわっている。色も質感も、他の段と変わらない。だが、数が合わない。昨日数えたのは十七段。間違いない。


 冷や汗が背中を伝う。息が浅くなった。頭の中で声が叫ぶ。


 数え間違いだ。ただの疲れだ。


 しかし、足はすくんで動かない。その十八段目が、他の段よりわずかに色が濃いように、闇を吸い込んでいるように見えてならない。そして、ふと気づく。壁に映る自分の影だ。懐中電灯の光が下から当たっているため、影は不自然に長く、歪んでいる。その影の足元…十八段目のあたりに、もう一つの、ぼんやりとした濃い影が、私の影と重なるようにして、微かに蠢いているように見えた。


「だ…誰?」


 声は震え、ほとんど息に近い。反応はない。ただ、その濃い影が、ほんの少し、形を変えたような…気がした。


 逃げる。それしか頭にない。振り返って駆け下りることも考えたが、下は闇の谷底だ。上だ。自分の部屋がある五階まで駆け上がるしかない。


 息を切らし、必死に足を動かす。十九段目? 二十段目? もう数えられない。足音が二重に響く。自分の慌てた足音と…もう一つ、鈍く、重い、しかし確かに後ろから追いかけてくるような、木を踏む音が。


「っ…!」


 振り返りたい衝動を必死で抑え、上を見る。五階の踊り場が見えた。あと少しだ。しかし、その踊り場の手前…最後の数段の壁に映る影がおかしい。


 私の必死に駆け上がる影の後ろに、もう一つ、ぼやけた、しかし確かな人の形をした濃い影が、同じ速度で、いや、むしろ徐々に距離を詰めるように、階段を昇ってきている。


 恐怖が喉を締め付ける。肺が焼けるように痛い。泣きそうになりながら、最後の力を振り絞って駆け上がる。五階の踊り場に飛び乗る。すぐに振り返る。


 階段は闇に沈んでいる。何もいない。…いや、まだ下の方で、ゆっくりと、しかし確実に昇ってくる鈍い足音が響いている。軋む音。段を踏む音。それは、ゆっくりと、しかし容赦なく近づいてくる。


 震える手でドアの鍵を探す。ポケットの中。どこだ? 足音は四階と五階の中間あたりまできている。冷たい汗が額を伝う。鍵が見つからない!


 そして、その瞬間、階段下の闇から、異様な冷気が一気に這い上がってきた。吐く息が白く曇る。同時に、目の前の階段の壁に映る影が、明らかに変わった。ぼやけていた後ろの影が、急に輪郭をはっきりと現した。


 それは、背筋を丸めた、どこか歪んだ人間の形をしている。そして、その影の頭部が、ぎくしゃくと、不自然な角度でこちら…踊り場に立つ私の方を向いた。


「ひっ…!」


 悲鳴が喉の奥で潰れた。鍵だ! ポケットの中で冷たい金属の感触をやっと掴む。震える手でドアに向かって突き出す。鍵穴がなかなか合わない。


 背後から漂う冷気が首筋にまとわりつく。影は踊り場の一段手前まで迫っている。その歪んだ形が、壁面からはみ出し、現実の空間に滲み出してくるかのようだ。


ガチャッ!


 やっと鍵が回り、ドアが開く。振り返ることもせず、飛び込むように部屋に転がり込み、背中で勢いよくドアを閉める。カチリと鍵を閉めた音が、死んだように静まり返った部屋に鋭く響く。


 背中をドアに押し付け、滑り落ちる。鼓動が耳を打つ。外には…何も音がしない。先ほどの重い足音も、軋む音も、完全に消えている。ただの、古いアパートの深夜の静寂だけだ。


「……気のせい……疲れてたんだ…」


 自分に言い聞かせるが、声は明らかに震えている。深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出そうとする。その時だ。


 ドアの向こう側……外側の床板が、ギシリ……と、ゆっくりと、しかし確かに軋んだ。まるで、誰か……何かが、今しがた、ドアの前で立ち止まったかのように。


 私は息を殺した。全身の血が引くのを感じる。目は恐怖に見開かれ、震える手で口を押さえる。音は、もうしない。しかし、ドアの下の隙間から、ほんのわずか、闇が流れ込んでいる…いや、それはただの影ではない。


 部屋の明かりを遮る通常の影より、濃く、深く、冷気を纏った…何かが、確かにそこに立っている。その気配が、木の一枚板を隔てて、こちらを…じっと見つめている。


 明日の朝、私は確かめなければならない。


 あの階段は、果たして何段あるのかを。

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