第2話
手を触れず、意思の力だけで物体を操作する超能力を
一般的には石つぶてを浮かしたり、ボールの軌道を変えたりといったパターンがお決まりだろう。そんなもの、ユメオにしてみればイージー極まりない。土中のミミズを見つけるよりも簡単な作業だ。
しかしこれは、次元が違う。
ルナの面前に立ちはだかるガラス板に、穴を開ける——正確には、ガラス内の粒子結合を部分的に緩め、猫一匹が通れるトンネル状のスペースを作り出すのだ。
物質の分子レベルに干渉する、極めて精密な念動操作。単純に「力で押す」のとは根本的に異なる、繊細な意識制御が要求される。ユメオが持ちうる超能力の中でも、最も高度な技術の一つだった。
『もうちょっとゆとりのあるスペースを作れないものかしら。猫だからってわざと狭くしてるんじゃないの。ワタシの場合、ほら、毛が絡まっちゃって……』
『いいから、早く通れって!』
にもかかわらず、マイペースに気取った歩みを続けるルナに、ユメオは堪えきれず吠えた。
意識の乱れを表すように、開通したトンネルがぐにゃりと歪む。また集中を整え、楕円状に整形しなおす。
片やルナは、ご自慢のトリプルコートの被毛をぺろぺろと繕っていた。ユメオの鳴き声に視線をちらりとやり、ようやく意を決したのか、身体を縮めて、しゅるっ、と飛び上がる。流線型を描くように、ガラスのトンネルを通りぬけた。
ルナの尻尾が完全に室外へ出たのを見極めて、ユメオは念動力をおさめる。その瞬間、耐えかねたように穴は塞がった。ユメオの身体を強烈な疲労感が襲う。へっへっへっ、と息があがる。
「だらしないわね、ほんの数秒でしょうに」
アーマーの脚に仕込んだホバークラフトを作動させ、青色の炎を逆噴射させながら、ルナが庭に降り立った。着地の瞬間、芝生がちりちりと小さく燃えて、風に飛ばされる。
「うるさい、そもそも日頃のお前のいたずらがなければ、こんな苦労をせずに済んだんだ」
三崎家にはもともと、庭に通じる猫用の出入り口が設けられていた。キッチンの片隅に、手作りの戸板で。ルナももともとは自由に往来できていたのだが、暇を持て余すとすぐに主人の盆栽やら奥さんのプランターやらを荒らしてまわったせいで、封じられてしまったのだ。
よってユメオは、ルナを外へ連れ出すために自らの念動力をフル発揮して抜け道を作り出さなければなかったのだ。無駄な労力といえなくもない。
身体を振るって汗とともに疲労を吹き飛ばそうとするユメオに、ルナはフン、と鼻をそっぽ向けた。
「おい、バカ猫。今度はお前の番だ」
「なにがよ」
「俺の鎖を切れ」
ユメオは首を振るって、自身の首につけられた鎖をルナに見せた。庭を駆け回れるように、との配慮のおかげで、普段の生活に不便を感じない長さではあるものの、繋ぎ止められたままでは市街を練り歩くわけにいかない。
「おっけー。首ごとね」
ルナのふわふわした肩口がぱかっと勢いよく開き、細長いアームが一、二、三本と次々に飛び出す。
ぎゅういいいいいいいんっ、がががっがっががっ、ぎゅういいいいいいんっ。
先端で唸りを上げる、丸鋸、レーザーナイフ、ドリル。
「冗談はやめておけ。ご自慢の毛皮を編み物にされたくなけりゃ、な」
「面白い……やってみなさいよ。”伏せ”のポーズじゃないと、まともに能力も発動できないポンコツキモ犬のくせして」
ぴり、と空気に痺れが走って、二匹の間に静寂が降りた。
夏の昼下がり、クマゼミの鳴き声が、遠のく。
ユメオの喉から、獣性を帯びた唸り声が、小さく漏れる。ルナの肩から突き出した凶器たちが、ちりちりと出番を待っている。
間合い、わずか三メートル。
今にも張り裂けそうな緊張状態がいよいよ限界に達したかに見えた、その瞬間——
「きゃあああああああっ、ルナ、ルナがっ!!!?」
屋敷から、大きな悲鳴があがった。
二匹同時に振り返る。奥さんだ。居間の引き違い窓を開け、驚愕の相貌で両手を口に当てている。足元には取り落としたのであろう、洗濯物が散乱している。
とっさにユメオは”伏せ”て、眉間に意識を集中した。
「誰か、誰かきてぇ……ユメオちゃんが、ユメオちゃんがルナに……サイボーグ化したルナに殺され……はうっ!?」
屋敷の中へとヘルプサインを叫びだした奥さんが、急に脈打ったように跳ね上がる。そして、その場に崩れ落ちた。ユメオの放った念波が、彼女を眠りへと誘(いざな)ったのだ。
「中枢神経系を操作して強制的に眠らせた。麻酔の要領だ。しかし、長くは持たないぞ」
「ひええ、焦ったぁ……。戯れてないで急げってことね。はいはい。わかりましたよ」
ルナはアームをすべて引っ込めて、小さな丸鋸ひとつを取り出し直した。先ほどまでの凶悪な唸りとは打って変わって静かに回転しながら、ユメオを繋ぎ止める鈍色の鎖にピンクの火花を散らす。その瞬間、頑丈な鎖は糸のようにぷつりと切断された。
「はーい、みっしょん・こんぷりーとー。さあ、行くならちゃっちゃと済ませちゃいましょ……ってアンタ、何やってんの」
ユメオはルナに背を向け、一心不乱に犬小屋のそばを掘っていた。ひと掻きごとに、土が跳ねる。
やがて振り向いたユメオの口には、球状のものが咥えられていた。彼がお気に入りにしている真っ赤なゴムボールだった。
「イロハに会うならば、投げてもらわぬわけにはいくまい」
きりっ、とした表情で断言するユメオのしっぽは、無意識に左右に振れていた。
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