異説

加藤とぐ郎No.2

バリアント

鉄琴の涙、シンクロナイズド、亜麻糸の街角をさ迷う。

踊り子はパラソルの影、踊り微笑み撫でる。

風鈴のついた揺り篭、さざ波が書棚の果実を震わせる。

子守唄のエキソサイトーシス、潮騒がエンドサイトーシス。

囁きが夜露の絨毯を渡り、裏側の蒼穹で猫が虹を紡ごうと手を伸ばす。

金属の息吹と戯れる煙、隣の水面下、珊瑚は星座を書き換えて、真鍮の翼が静寂を透き通り、上昇。

プランクトンの連なりが弦を伝い、瞳から射貫かれる。

二つが混ざって鉛色、その水面を渡り歩く指の車輪。

波間に溶け、囚人と踊り、余所行きの静謐を抱きしめる。


砂の摩擦、空虚が迫る。

花弁が軋みながら、富を運ぶ旅から旅へ。

宝石の蝶が絵筆を操り、黙々と星の軌跡を描き続ける。

否、それが宇宙の、無限の歌。

蝶に輪郭を委ねると、怪物は来て、黙って頷く。

頷きだけで、世界の境界がひとつ消える。

私は、どっちだ。


紫色の砂時計が、背骨をゆっくりと舐め上げていく。

再始動。

耳の奥で膨らんだ月は、油膜のように剥がれて落ちた。

その上を這っていく、怪物とヤマネコが。

確かに目撃した。

そして、肉に土をかけるところを。

朝は何故か怪物の口の中に入り、ゆっくりと咀嚼されながら昼になる。

骨のように白く甘い闇が溢れ出す。

その闇は舌を持っていて、舌は地図を舐め溶かす。

溶けた現実を掌で受け止めると、それはすでに液体ではなく、声だった。

声は私を呼び、私の墓を掘っていた。

終わらない夜の番。

いつからか、こんなはずでは。


怪物が月を咆哮で打ち落とし、替わりに海月を夜空に据えた。

月も食べられた。

朝と月は胃の中を泳ぐ。

朝は泳ぐ、波が立つ、月は詩を書いて、賞を授与する。

水滴の中には、昨日食べたパンのかけらと、吐息になりきれていない不満。

私はアルバムから写真一枚を破り取る。

空席から、紫色の砂が吹き出す。

砂は、闇の舌に触れた瞬間、私の知らない私の記憶を語り始め、私の知らない私の骨に絡みつき、誰が誰だったのか分からなくなる。

混濁のまま眼を閉ざす。

だが眼球は既に口であり、口はやはり朝で満たされていた。

針を知らない時計、あの砂時計の中で落ち続けていた、今日。

明日を吐き出そうと努力しても、砂はいつまでも降りやまない。


落下するマリオネットの四肢のように、義務が拡散する。

一辺倒の演説に傾いて、同じ皿の上に盛られたいと思い立った。

調味料である私と、舌を刺す蜥蜴が、同時に殴られた。

銀ではなく、声帯でできているスプーンで。

スープという気分ではなかった。


夜空の海月にキスをして、日記を棚に仕舞うと、思い出さなくて良いことを思い出す。

急場凌ぎ、天井に吊る。

天井の銀河がまた増えてしまった。

偽物の蝶たちは一つの渦に集まり、黒の中心へ各々の朝を吐き出し、その間中、重力は垂直にねじれ、すべての物体は自分の影と入れ替わって歩き出す。

影の私は影の海底で硝子の棺を開ける。

中に保存されていた臆病は空中に舞い上がり、瞬く間に無数の紙飛行機へと変わっていく。

紙飛行機たちは夜を解体し、星の骨格を組み替えて新しい動物を創る。

光は今、その動物だけを指し示す。

その動物まで導くものだけを、ここでは光と呼んでいるのだろうか。

私はそれを追う。

しかし追っているはずが、気づけばその動物の体内にいて、無限に折り畳まれた空間に、虫けらと並んでいる。

窓の外では、雨が上へ落ちている。


一匹の虫が、否定を纏っている氷河の上で、使命を帯びた良人を火にくべる。

灰のように、藻屑が街を覆う。

なぜなら列車は脱線し、今日も潜水する。

十字架は呆れて、少し曲がる。

穴が、驚きに似ている怒りを捨て、能動的に筒となる。

やがて器を消し、風と化す非礼を、許した。

怪物が許す。

その様を醒めた目で睨めつけていたサボテンと私は、半裸で家を拵えた。

床は常に波打つ水面で、膝まで浸かって工事を行う。

壁には、発音されなかった台詞が瓶詰めにされて並ぶ棚。

異物と夢を蒸留して香水に変える装置があれば、囲炉裏は要らなかったかもしれない。


机の脚が溶け、微笑む。

半透明の机の上で、時計は正午から正午までを一瞬で駆け抜け、その針は水滴になって床を濡らす。

水たまりの中で、ヤマネコが逆さになってピチカート。

空間そのものが鳴動する。

音は球体になって宙に浮き、その球体を飲み込んだ私の喉からは、今まで一度も聞いたことのない母の声が、逆再生で流れ出す。

思い出したというよりも、妙に納得してしまう。


善良でない虫がまた薪を奪いにくる。

湖底からでも見透かされる偽善。

涙が逆流し、雨雲を内側から濡らす。

最奥には乾いた心臓、脈動は鐘の音になって耳骨に響く。

造花の茎をねじり、幾つか束ねて縒る。

彫刻された星屑の海、冷たい煙突から広がる。

鉛の幻、風を編むスファレライトの書。

励起し、音を立てずに廃墟が去っていく。

分解者が塵芥を祈りに変える。

未来を告げる、絢爛たる指の回転。

香りを持たず、言葉を吐くそれは、国境線をなぞる子守唄。


夜ごと位置が変わる。

コンテナには完成を見なかった試作品だけが積まれる。

虫たちが出荷員として働いており、その顔は鏡面で、覗き込むと自分が製品になって積まれている姿が映る。

空間を埋め尽くすコンビナートは、国境を跨ぎなお拡張する。

海月の光を模写する画家が、影の油をパレットに垂らす。

あそこの製品だ。

海辺の子供が、地球儀を逆さにして遊んでいる。

あそこの製品だった。


潮騒から新しい言語が生まれる。

その言語はメロンの皮の裏にだけ書かれる。

メロンを剥ぐと、そこには鯵の目玉のような月が、呼吸するように満ち欠けを繰り返していた。

カンバスに都市が芽吹く。

都市には人影がない代わりに、鳥の形をした静謐が歩き回り、駅ごとに翼を畳んでは、凍った切符を発行する。

珊瑚が切符の番号を深海で唱えるたび、波の形が変わり、波の中に眠っていた朝が目を覚ます。

忠告が都市を飾る。

キャンペーンに歓喜する大衆は思い思いの足跡で愚かさの地上絵を描く。

宇宙飛行士だけが冷笑し、酸素が減少する。

朝は色を変え、光と姦通する。

私は光に裏切られた。

私は浜辺に地球儀を置いて沈んだ子供。

まさしくメロン。

または鯵。

そんな気分。


壁は壁であることをやめ、色彩の塊となって私の視界に押し寄せてくる。

香水が鼻腔を満たし、グルコーゲンを溶解させ、吐息が出る。

百枚の連続した窓に、見知らぬ洗濯物が映り込み、それらは爪の先ほどの蝶となって飛び立つ。

メロンの裡に描かれた地図の、すべての国境を蝶の羽撃きで結び、月を回転軸として空間を攪拌する。

攪拌された空間は、透明でありながら、吸うたびに砂の味がする。

紫色の砂の上でサボテンが花を咲かせる。

花は赤く、富を蜜に変え、蜜は裏切られた者だけの唇を濡らす。


都市の蓋の上で、学者は顎を持たない虫を数え、数え間違えるたびに文字が琥珀になってビルに貼り付く。

画家の大笑いで空は塗り替わる。

酸素の代わりに沈黙が充満する。

呆れ果てた十字架は、まず静かにひび割れ、その裂け目から余計な信仰が零れ落ちる。

十字架を支えようと、触れる。

しかし十字架は驚いた拍子に自らの輪郭を折り曲げ、ついに音もなく死ぬ。

最期の嵐が来る。

砂利が荒れ狂い、耳鳴りの鋭さが、空間に必要性を刻む。

学者の機械の群れは腐臭を暴き、摘出する。

ついに私は、怪物にたどり着く。

瓦礫が黙々と積み上がり、蜃気楼の形を成す。

そこに怪物は座していた。


「一名様ですか?」

「いいえ」


不協和音が静寂を破り、止まることなく宇宙は崩壊を踊らせる。

鋼鉄の棘が地に刺さり、肉が裂け、折れたサボテンも枯れ果てる。

螺旋の塔は虹、頂上に猫とヤマネコ。

沈黙の迷宮には依然として、嘆く画家と、叫ぶ学者。

絨毯は破れ、腐った実が棚から落ちて鏡に触れる。

一匹の虫の顔が割れる、地を這う腐った実こそ、拘りなく、破壊者である。


「向かいの席、失礼します」

「はあ」


半透明の螺旋、踊る花弁、憩う密、グラスが輝く。

野生的に現像する。

撮り忘れた景色は、思い出の奥で蛹になる。

汁となって底に溜まると、思考が現れる。

疑問を閉じたまま、石畳を青く染める。

その青の亡霊が、白日でただひとつの無関心な点となって漂う。

歳月が風鈴を噛み砕き、脊椎の路地裏へ。

すべてはこの店で、怪物と落ち合うための。

ぼやけた宵闇を削り、泥酔した皮膚はしっとり。

スノードームの底で眠る稲妻が、時折指先で砂糖をばら撒き、白い時間を降らせる。

怪物の名前が喉に詰まっており、私は片目で非難し片目で救援を要請する。

店に居合わせたさすらいの風車は、私をからかうように回っている。

吹雪のせいで、私の声帯は錆びてしまった。

思考は通行証にはならず、ただ触覚だけで抜け穴を探る。


「言葉がないのかい?」

怪物は問う。


「ある」

私は答える。


「はず」

私の片目が不安を吐露し、

「きっと」

もう一つの片目が希望を発露させた。


砂時計の砂は、どんなサービスなんだろう。

舌の上の砂漠、好奇心の遺跡。

そういえば祖母も喉の奥、メロンの種を詰まらせたという。

鯵の骨が刺さったのだったか。

あるいは歯車の楽器。

要するにデジャヴュ。


怪物に砕かれる前に、せめて潮騒をカセットテープに吸い込み、柳の演奏を閉じ込めたい。

ベルベットのブックカバーで、燃える国々を渡る。

ランデブーポイントはここ。

カタツムリの眼窩に沈みたい。

瑠璃色の細胞になって雨を待つ。

まっちろいかすを巻き込みながら、宇宙の端、観覧車は墜落する。

あれに乗ってみたかった。

寄生された虫は、鏡の隙間から雪原を覗き、砂糖と雷の味を夢見る。

私もそうだった。

ライフセーバーを山に放りたい。

眼前のテトラポッドが雑念を打ち消し、私の口の中から錠剤が消える。

それは、副作用。

にわかにはしゃぐ、迎えに行かなくてはいけない、何か。

瞳や指や舌や喉が不正を覚えるたびに、完治は延期される模様。

酸素は、ない。

あるのは、あるのはあなたの、あなたの吐いた、吐いた……。


あなたの肺に引っかかった凍った切手を、私の手で一枚ずつ剥がしたい。

血管に沿ってあなたを炙り、その蒸気で私は肌を潤すの。

心臓がチェーンと擦れるたび、蝉時雨が肋骨の裏側に染みこんでくる。

形見の懐中時計。

墜落した観覧車の座席で、あなたの鎖と私の静脈を結び直す。

シートも窓も消え去って、残るのは、あなたの皮膚にしか触れられない香り。

酸素は、いらない。

瞳が橋を架ける、指先がなぞって、舌先で名乗り合う。

私はあなたの喉笛の中で最初の朝になる。

まだ一度も来たことがないのに、ずっと浮かれずに待っていた朝。


「おはよう」


怪物は、黙って頷いた。

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