第13話 寝床荒らし

 ぷはっ、とシーズが水面から顔を上げた。


 ぱしゃりと水が飛び散って、ライオはきゅっと目をつむる。


 ふう、とため息をついた。

 月夜に照らされた髪の先端から、小さな雫がぽたぽたと水面を叩く。


 そこに、凛とした声が加わった。


「あとは任せてください」


 がちゃり、シーズは銃を構えた。

 ピッと手を振って、そこについていた水を振り落とす。


「シーさん、濡れちゃってるけど、大丈夫なの?」


 ライオが口を開いた。


「大丈夫です。この銃はそんなにやわじゃありません」


 そう言って、くるくると、彼女はあたりを見回す。


「あ、いやそう言うことじゃなくって。シーさん、濡れちゃったから」

「ああ、そう言うことですか」


 ふ、とシーズは微笑んだ。


「大丈夫です。夏場ですから」


 そう言って、シーズはライオに手を差し出した。


「行きましょう」

「うんっ」


 こくりとうなずいて、ライオは再びその手を取った。

 水から離れ、川岸を歩いて行く。


 じゃりじゃりと、川辺の道を歩く音。


 それは、この川の水位が一定ではないことの証左だった。

 そして、今の川の水位は低い。


「このまま川を登れば、塔の方へと行くことができます」

「塔の入り口から流れてるんだっけ」

「そうです。多少くねりはありますが――――」


 そこで、シーズは言葉を止めた。


 え、とライオは声を発そうとする。


 その暇もなかった。


 シーズの手が閃いた。


 まっすぐ森の方へ、それに顔が追いつく。


 ガチッ


 ドッ


 グシャッ


 何かの生命が、また一つ旅立った。


 木々の暗闇の向こうで、ライオには何も見えなかったが。


「すみません、やっぱり狙われやすいですね」


 ふうっ、とシーズは息をついてそう言った。


「光があると安心しますけれども」

「すごっ……」


 ライオは、ただただ感嘆していた。


「シーさん、なんでそんなに襲ってくるのがどこから来てるのかって分かるの……?」

「音です」

「音……」


 なんのためらいもなく答えるシーズに、ライオは首を傾げた。


「俺はなにも聞こえないけど……」

「私は昔から目が悪いので、ていうか生まれつきそうなので、耳がよくなったんだと思います」

「あ、だから、眼鏡……」

「特別製です。ないと何も見えません」

「へー……」


 すちゃっと銃を下ろして、再びシーズは歩き始めた。


「しかし、あまり多くの人が塔にたどり着いていないみたいですね」


 おもむろに、シーズはそう言った。


「え、そうなの?」


 ライオはまた尋ねる。


「なんでわかるの?」

「塔からの水が減っていますから。まあ今はまだ、という話ですけど」


 シーズはちらりと川に顔を向けた。

 二人が歩いている場所である川辺の砂利。

 木が生えている終端の場所から、川の水の流れているところまでは、数メートルの開きがあった。


「普通、人が多く入ると水も多くなるんですけど……」

「そうなの?」

「ええ。ただ、実証はされていませんし、傾向の話ですので、確証があるというわけじゃないんですけど」

「傾向って……」


 そのことは、ライセンス試験でも学ばなかったことだった。

 それだけ、不確実な情報ということなのだろうか。ライオは思案した。


「今まで何回塔には行ってるの?」

「二十回くらい、でしょうか」

「すご……」


 やっぱり、もうこの人を甘く見るのは辞めた方がいいかもしれない。

 ライオは静かにそう思った。

 自分たち、子供二人が苦労して、死にかけまでしたその道程。


 それを、彼女は二十回も生きて切り抜けて――――


「あっ……」


 そこまで考えて、ライオは唐突に思い出した。


 ぴたり、と足が止まる。


「エナ……」


 そして、そう呟いた。

 エナの顔が、突然に脳裏に現れた。


「なんで忘れて……」


 いや、忘れていたというわけじゃない。

 というか、忘れてなんかいちゃだめなのに。


 なんでさっきまで、自分は思い出していなかった……?

 しかも、シーズには真っ先に言っておくべきことだった。


 さっきまでのパニックで頭がそれどころではなかったのだろうか。

 ライオの顔から、血の気がさあっと引いた。


「ライオさん?」


 くるり、とシーズは踵を返して、怪訝そうな顔でライオを見た。


「どうしたんですか?」

「あの、エナ、が……」

「エナさん……」


 くるり、と一瞬だけ、思い出すように彼女の視線が空中を踊った。

 それから、うかがうように口を開いた。


「死んだ、とかでは……ないですよね」


 しかし、ライオはすぐには首を縦に振ることはできなかった。

 今、生きているのだろうか。それともそうではないのか……。

 確証がない。


 そんなライオの顔色を察したように、シーズは口を開いた。


「すみません……いつからいなくなったのか、私はわからなくて」

「生きていると思う」


 シーズが何か、心の中で勝手に確信を持とうとしているように感じて、ライオはさえぎるようにそう言った。


「そう言いますと?」

「シーさんが起きる直前まで、一緒に居た。そのあと野営してたら、その……フクロウに、連れ去られて」

「フクロウ?」


 怪訝にシーズは眉を上げた。


「うん。巨大なフクロウだった。シーさんより大きいフクロウで、俺も気づいたら吹っ飛ばされてて……そしたら、エナがそれにつれてかれて」

「フクロウ……アオツバヅク。そいつに、わたしたちはテントをやられたということですか」

「うん」


 シーズは自らの口元に手を当てた。


「塔の外で、ですか……」

「やっぱり、そうだよね」


 名は、アオツバヅク。

 それは、塔の中にいる、そのまま外のフクロウを大きくしたような生き物。

 原生林でのその出現は、一度も確認されていない生物だった。

 シーズは眉根を寄せる。


「妙ですね。確かに見たんですか?」

「うん、リーズガンを使ったら、見えて。背中しか見えなかったけど。シーさんよりも大きかった」


 ぐ、とライオは自分の奥歯をかみしめて続けた。


「倒せなかった……」

「大丈夫です、ライオさん」


 うつむくライオに、シーズはかがんで、視線を合わせるように言った。


「全く音もしなくて、気が付かなかったんですよね?」

「うん……」

「あのフクロウはそう言う生き物です。逆に姿だけでも見れたことが奇跡です。安心してください。今の季節は……産卵か孵化でしょうか」

「それは……?」


 いきなり話題が変わって、ライオは首を傾げた。


「ともかく、まだ生きている可能性は捨てきれない、ということです。それに、巣が塔にあるとするならば、そこへ行けば安否を確認できるはずです」

「大丈夫、なの?」

「言いきれは、しません」


 ぐ、とシーズは唇を結んだ。


「万が一、いや十が一くらいで死んだと思った方がいいです」

「えっ……」


 ぎゅっと心臓が引き絞られるような感覚がした。


(そんなに、軽く?)


 そう思ってしまった。

 あのエナが、こんなにあっさりと……。

 もしかしたら、もう死んでいるなんで。


「心苦しいですが、生きていたら奇跡です。こんなことを言っては何ですが……。ライオさん」

「っ、うん」


 詰まりそうな喉で、ライオは応じた。


「フクロウに捕まったネズミを見て、そのあとまだ生きているとは思いますか?」

「っ………」


 ぎゅっとライオの奥歯に力が籠った。

 どくどくと、動悸が早まる音がする。


 こんなこと、考えたくないのに。


「じゃあ、エナは……」

「ただ」


 ライオの言葉を、シーズはすぐに遮った。


「え」


 足元が救われたように、ライオは目を丸くした。

 シーズは口を開く。まるで一言一句に念を押すように、言葉を紡ぐ。


「覚悟を持っていてください、というだけのことです。軽々しく死んだとは思いませんが、軽々しく生きているとも思わないでください」


 そんなシーズの顔は、真剣だった。

 説得力がある、とライオは子供ながらに思った。

 大人の、真剣な言葉の語り草。

 それに、ほとんど無条件に納得してしまうような感覚がした。


「……わかっ、た」


 こくり、とライオはうなずいていた。

 そうして、シーズは踵を返す。


「行きましょう。エナさんの安否を確かめたいのなら、ともかく塔へたどり着くことです」


 そして、また歩きはじめた。


「そこへは、私が必ず案内します」


 少しの戸惑いがあって。

 ぐ、とライオは深くうなずいて、シーズの背について行った。




 塔には来訪者があった。

 それを見るものは、それを認識して、今までにない来訪者だと理解した。

 つまり、新しい来訪者ということだ。

 それを見るものは、その存在を覚え、どこにいるかをはっきりと認識する。

 第一階層、そこに一人の人間の少女が入ったことを、それを見るものははっきりと記憶した。




「シーさん、どうしたの?」


 川辺を歩きながら、ライオはそう聞いた。

 あれから、少し時間が経った。


 何度か生き物の襲来を――その姿も見ぬままに――シーズが退け、目の前にそびえる塔という羅針盤を頼りに、砂利の道を歩いていたところ。


 シーズは、あたりを気にするように左右に首を動かしていたのだった。


「中継拠点キャンプを探しているんですが……」


 そう言うシーズの顔は、きょろきょろとあたりを見回していた。


「もう近くにあるの?」

「はい。そのはずなんですけど。見当たらなくって……」


 言いながら、シーズの顔は、やたらに森の中の方に向いている。

 そこには暗黒、見渡す限りの暗黒だ。

 ライオは首を傾げ、シーズに尋ねた。


「見えるの、それ」

「夜に着く人のために赤外線の光をたいているので、見えるはずなんです」

「赤外線……」


 聞いたことがあるような、ないような。

 そういえば、スィース共同住宅において、それを習ったような気がする。


 確か――――


「って、見えるわけないでしょシーさん。赤外線だよ」


 それで、赤外線は生物の目に捉えられない光だということを思い出した。

 すると、シーズは眼鏡をぴっと指さした。


「特別製、って言いましたよね。見えるようになってるんです。ほかの案内役の冒険家の人たちもみんなこのような眼鏡を持ってますよ。私はずっとかけてますけど」


 そう言いながらも、シーズはまだ森の方を眺めていた。


「おかしいですね……」


 そう言いながら、彼女は自らの後頭部を掻く。

 もう、塔は間近だった。


 いや、さっきからずっと間近のように感じられて、しかも塔の規模感が変わらないためまったく実感はない。


 しかし、今まで歩いている距離からして、もう近いはずだった。


 塔から円環河まで――つまり原生林の範囲そのもの――の距離は、長いところで一キロメートル、短いところで八百メートル。総じて面積は、おおよそ一四〇平方メートルほど。


 つまり、危険な原生林とは言っても、河から塔までの距離は、長くとも一キロメートルしかない。


 まっすぐ塔へと向かえる平地であれば、踏破するのに数時間もかからないほどのもの。

 もうあれから半日以上は歩いている。塔の入口はもうかなり近いはずだった。

 そしたら塔の入り口からほど近い場所に、中継キャンプがあるはずなのだけれども。


「ちょっとだけライオさん、息を止めていてもらえませんか」


 ふと、シーズがそう言った。


「え?」

「お願いです」

「分かった……」


 どうしたんだろう、と思いながらも、ライオは口を手で覆った。


 くっ、と息を止める。


「……」


 そして、シーズは耳元に手を添えた。

 音を聞いているのか、とライオは直感した。

 風はあまりない。だから、木々のざわめく音も聞こえない。

 ただ、虫が鳴く音、河が静かに流れる音ぐらいしか邪魔するものはなかった。


「……もういいですよ、ライオさん」

「あ、うん」

「おかしいですね……」


 シーズは再び、自分の顎に手を当てた。


「眠っているとはいえ、見張りはいるはずなんですが」

「何も聞こえなかったの?」

「はい。川の近くにキャンプがあるはずなんですが……」


 川の流れの源泉は、塔の入り口から。

 つまるところ、川の近くは塔の入り口の近くということで、そのすぐ近くにキャンプはあるはずで。


「行きましょう」


 言って、シーズは森へ顔を向けた。


「見に行くの?」

「何かあったのかもしれません」

「でも……」


 一抹の不安が、ライオの胸をぬぐう。

 わざわざ、危険を冒して森に入らずとも。

 先ほどまでの体験が、ひどく胸に染みていた。


 それを見て、シーズは口を開いた。


「もともと中継キャンプで物資を補給するはずだったんです。どちらにせよ見に行くしかありません」

「あ……そっか」


 ライオは納得した。

 今、自分たち二人の背にはカバンはない。全部、襲われたあの場所に置いてきてしまった。


 その場所に戻るという選択肢はないに等しかった。この暗闇の中で、足跡も追えない中で、どう戻ればいいというのだろうか。

 だから希望はこの川をさかのぼった先にある中継地点にしかなかった。つまり、どちらにせよ、そこへ行かなければ塔には入れない。


 かくして、シーズは歩を進め、ガサリと森の中へ。

 その背に、ライオもついて行った。


「暗い……」


 入ってすぐに、もう星と月によって生み出された光は、ないに等しくなった。

 光によってどれだけ安心していたのか身にしみてわかった。再び暗闇に立ち入ることが、どれだけの恐怖か。


「おかしい……」


 相対して、小さなささやき声があった。


「どうしたの?」

「ここにあるはずなんです。川から少し歩いた場所に、テントが……ちょうどここに」

「いつも同じ場所にあるんだよね」


 暗闇の向こうにライオは尋ねる。


「はい。冒険家が交代交代で中継キャンプを維持しています。でも、これは……」


 ぱっ、と明かりがついた。


「えっ!?」


 思わずライオは背筋をぴんと伸ばした。

 光? 一体何が起きたのか。

 敵か、何かが来たのか? 思わず、手が銃帯に向く。


「私が付けました。安心してください」

「えっ」


 ひょい、と体を傾けてシーズの前を覗き込む。

 彼女の手には、どこからか取り出した、小さな懐中電灯があった。


「つけて大丈夫なの?」

「大丈夫じゃないです。でも、緊急事態なので」


 懐中電灯の光が、目の前の一体をぱっと照らしていた。

 森だ。森の内部を、出力の高いまばゆい光が白く照らし出している。


 そのまま、彼女は歩き出した。


「銃を出しておいてください」

「うん」


 帯のこどもリーズガンを出して、そのスイッチを発射へと向ける。

 体の前に構えながら、ライオはシーズについて行った。


「止まって」


 ぴたりとシーズは脚を止めた。


「むぐっ」


 勢い余って、その背にぶつかってしまう。


「ど、どうしたの?」


 ひょい、と顔を傾けて。

 シーズの体の前にあるものを、ライオは目にした。


「え」


 それは、黒の地面だった。

 なんだろう、これは。


 一瞬、何か理解できなかった。


 しかしすぐにわかった。それはテントの布だった。テントの布が地面に散乱して、地面が黒くなっていたと錯覚していたのだ。


 そこは数メートルある開けた場所でもあった。

 ライオはここが何なのか、少しずつ理解した。


「ここ、中継キャンプ」

「そうです。もぬけの殻? いや……」


 シーズは顔をしかめた。


「死臭がしますね」


 そう言われて、ライオは自分もすんすんと鼻から息を吸った。


「……わからない……」


 やはり、何も感じない。

 シーズは自分に比べて一体どれだけ感覚が鋭敏なのだろうか。

 どれだけ頑張っても、森の緑の匂い。


 自分はこれだけ、何もわからないというのに。


「何人か犠牲が出ています」


 しかし、シーズは言い切った。


「これは、撤退したみたいですね」

「撤退……」


 おうむ返しに、ライオはそう言った。


「じゃあ、それって」

「補給が難しいかもしれませんね」


 ライオの言いたかったことを、シーズが代わりに口にした。


「このままでは、塔に入ることが難しいかも……」


 その場にシーズはしゃがんで、あたりを光で照らしだした。


 物資の補給。


 それは、食料だけの話ではない。

 そもそも食料など、塔に入れば現地調達の方が多い。

 問題は、医療器具や冒険用の生活用品一式。

 あるのとないとでは、服を着ているか着ていないかほどの差がある。


 塔への途中の原生林に、荷物を置いて逃げ出したりすることは頻繁にある。そのため中継キャンプにはそのための用意もある。


 シーズはそんなキャンプの残骸に目を配って、状況把握に努めていた。

 あたりには黒いテントだけではなく、いろいろなものが散乱している。

 テントの下に潜り込んでいるものも見えた。


 それを見て、シーズは口を開いた。


「漁りましょう」

「漁る?」

「幸い、いくらかは残っているみたいです」


 そう言って、シーズは腰を上げた。

 それから黒いテントの端に手をやり、ゆっくりと持ち上げる。

 下にあったものがあらわになって、上に乗っていたものはばらばらと地面の上に落ちていった。


「っ」


 ライオは息を詰まらせた。


 黒いテントの下に、何かがあった。


 そのあったものを目にして、思わず一歩後ずさってしまった。


「死体ですね」


 シーズは眉をしかめて、そう言った。

 人間の体だった。おそらく子供のものだった。

 首から力が抜けて、ごろん、と頭が明後日の方向に向いている。

 その傍らに、シーズはしゃがみこんだ。


「シーさん?」


 その顔を、手元の懐中電灯で照らす。

 彼女は眉をしかめた。


「それは……」


 ライオが口を開く。

 思わず、確かめようと足が動いていた。


 ばっとシーズは手を出した。


「ライオさんは見ないでください。ご学友です」

「えっ……」


 喉に息がつまった。


「学友って……」


(俺の友達……?)


 半ば反射的に、頭が働いた。


 頭の中に、三十二人の仲間の中の、特に仲の良かった数人の顔が思い浮かぶ。

 誰だ。一体、誰が死んだんだろう。


 たぶん、男だ。この身長は、たぶん――――


「考えないでください」

「っえ」


 その言葉で、ライオの思考は引き戻された。


「死んだ人は、塔から帰ってから考えてください」


 言って、シーズはテントに手をかけた。

 そしてそれを翻し、傍の遺体の上にかける。


「今は物資の補給です。そこにあるもの、使えるものを選別してください」


 そうして、先ほど地面に散らばった物品の方を指さす。


「私は使えるカバンを探します。いいですか、ライオさん」

「ぇ、あ、はい」


 うまく声がでない。

 なぜだろう。

 その状態で、ライオはこくりとうなずいた。

 それから、こどもリーズガンのスイッチを照射にして、物品を照らす。

 しゃがみこむと、ぐじゅっ、と首元に嫌な感覚がした。


(汗……)


 首で、汗が溜まり場を作っていた。

 手をやって触れてみると、べっとりとそれが手につく。


(死体って、そういうことなんだ)


 やけに思考が冷静に、自分の状況を分析した。

 怖くもない、恐ろしくもない。

 嫌なにおいもしなかったし、よくお話で見聞きする絶望感も押し寄せてこなかった。


 強いて言うなら、気持ちが悪い。

 おなかの底が、少しだけすっとなって、外気の温度がほんの数度だけ上がったような気がする。

 別に気持ち悪いというくらいでもないけど、しかし気持ちよくもない。


 服で汗をぬぐって、ライオは物品に手を向けた。

 見ると、おそらくカバンに入っていたものが散らばったものだと分かった。本来そこに入っている一式のいくつかが、そこに散乱している。


 合成樹脂製プラスチック瓶に入った生理食塩水、火打棒、ガーゼ――これはもう使えないか――、多目的用フォーク、手のひらサイズの土堀り道具スコップ、その他もろもろ……。


 どれも、傷ついているというわけではなく、綺麗なままだった。

 ちらと向こうに目をやると、シーズはほかのテントをひっくり返しているところだった。


 その目元に、また皺が寄る。

 ライオはとっさに目を背けた。なにか、まずいものがそこにあったのだろう。


「カバンを見つけました。一式がそのまま入ってます」

「う、うん」


 それが、誰か別の人が背にしていたものであろうと、ライオは根拠もなく直感した。


 誰なのだろう。大人か子どもか。もしかしたら、顔見知りか。

 そう言えば、人が死ぬのを今回初めて見た。


 どうやって死んだんだろうか。


 血の匂いはしない。何に襲撃されたのだろう。

 自分たちみたいにアカゴノウマとか。もしかしたらもっと強力な生き物か。

 中継キャンプには常に熟練の人たちがいるというのに、なんでこんな犠牲が。

 いや、よく考えてみたら、犠牲者は少なかったのかもしれない。たぶん、ほんの数人だ。このキャンプには、十数人がいたのかもしれない。それで犠牲者が数人、なら。


 自分が死んだわけではない。目の前で見たというわけでもない。

 しかし、自分の顔見知りかもしれない。

 ただ死体を見たショックなのか、それとも知り合いが死んだという事実が曖昧模糊としているせいか、もしかしたらその両方か。


 心の中がぐらぐらとしてくる。気持ち悪い。

 泣きたいとかそう言う話ではない。なぜだか、頭の奥あたりがさあっと軽くなって、ふわりと足元が少し軽くなるような感覚がする。


 どうしたらいいんだろう。シーさんは、この気持ちを感じたことがあるのだろうか。


 それとも、自分が特別なのだろうか。死体を見て、恐ろしいとか怖いとかではなく、ただ気持ち悪いと思うのは。

 暗澹たる気持ちが、おなかの中からぐっと漏れ出てくる。

 少しの気持ち悪さを覚えて、ライオは遺品に目を走らせるのをやめた。


 そして、ふと、もっと前の方へと目をやった。


 それは、ついさっき、シーズがテントをひっぺ替えしたばかりの場所。


「え」


 ライオは小さく口を動かした。

 もしかしたら見間違いかもしれない。


 つと手を動かして、そこへリーズガンの光を向ける。


 間違いなかった。ライオは目を見開いた。


 そこに、まるで猛禽類が着陸したような、深い爪の跡が残されていた。

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