第12話 暗闇で逃げて

 とても軽かった。


 リュックがないからかもしれない。それとももっとほかの理由なのかもしれない。


 自らが背にしているシーズの体はとても華奢で、軽くて、それを背にしながら森の中を駆け足で潜り抜けられるほどだった。


「ふっ、ふうっ、ふっ」


 水がある。どういうことだろう。しかし、シーズがそう言ったのなら、そこに向かえということだろう。


 ライオは素早く思考した。


 目が乾く。何も見えていないのに目を開いてしまう。

 閉じても変わらないのに、何も見えないのは一緒なのに、それでも閉じてはいられない。


 今自分たちは狙われているのだろうか、それともいないのだろうか。

 それすらわからない。相変わらず闇は闇のままだ。

 まるで見えているかのように銃を撃ち、ひとまずの敵をすべて殲滅してくれたシーズは今自分の背中の上。


 しかし自分は暗闇の中で、どこに何があるのかすらわからない。

 せめて、ただただ、走っていくのが関の山だった。

 頼れるのは、自分の平衡感覚と足の感触だけ。


「ぐぅっ」


(肩が――――)


 衝撃が走って、平衡感覚が崩れ、全身に痛みが走った。


「っはっ」


 転んだ、転んでしまった。

 当たり前だ。前すら見えないのだから。どこに木があるのかすら知らないのだから。


 シーズの感触はまだ背中にある。なんとか背負いなおして、持ち直さなければ――――


 がさり


「ッ!?」


 音。


 反射的に手が帯に向く。

 一秒もいらない。


 その方向へと向けて、ライオは光の筋を炸裂させていた。


 ズバッ


 木に当たった時の音。

 外した。


 当たらなかった。

 なんだ、何の生物だ。


 今自分にとびかかってこようとした生き物はなんだ?

 せめて、光に驚いてくれる生き物でよかった。どこかに飛びのいた脚を見た気がする。


 しかし一瞬すぎたゆえに正体を逃した。


「くそっ」


 力を込めてシーズを背負いあげ、また走りだす。

 わからない。気配が分からない。

 音も聞こえない、自分の足音に邪魔されてどこからなにが来ているのかもわからない。


 そもそもさっきの音が大型生物のだったのか、それともただの虫の音だったのかすらわからない。

 全部が分からない。何も見えない。


 恐ろしさで頭がどうにかなりそうだった。ただそれに抗おうとする気持ちだけで脚を動かしていた。


 今この瞬間にももうすぐそばまでやって来ているのかもしれない。それともそうでもないのかもしれない。


 気を張ればいいのか、緩めていいのか、どこへ警戒すればいいのか、何を警戒すればいいのか。


「ガルッ」

「わあっ!」


 バシュッ!!

 ただ死の一瞬前にだけ、その答えあわせはやってくる。


「っ、あっ」


 運がよかった。

 反射的に銃を撃っていた。


 襲い掛かって来たオオカミにちょうど凝集光を食らわせられた。


「わっ」


 どさっ。


 顔を焼かれたオオカミが倒れる音、そして自分がバランスを崩す音。


「うっ」


 そして、背から離れたシーズが呻く音が聞こえた。


「しっ、さっ、ごめんなさっ」


 はあ、はあと息が切れる。

 喉が焼き切れそうになるほど乾く。


 口の中には唾液の一つも出てこなくて、もう喉を震わせるのも苦しいほどで、血管がそのまま喉に張り付いているような。


 音が聞こえない。


 心臓がうるさい、耳鳴りがする、何も見えない。


 これだけ見えないというのに、まだ眼球は勝手に動いて、目の前に何があるのかを捉えようとしている。


「くそっ」


 吐き捨てるような悪態。

 誰に向けるでもない感情。

 手探りでシーズの手を探しあて、再び背負いあげる。


(行かないと)


 脚で地面を踏みしめる。

 もはやこれしか道はない。


 とにかく、走り続けなければ。

 シーズは耳がとんでもなくいい。もしかしたら水の音と言ったって、本当は一キロ近く向こうなのかもしれない。


 それともももう、そんな場所は通り過ぎてしまったのかもしれない。

 何も見えない、どこかも分からない。


 でもただ、走り続けなければならない。


 そうじゃないと――――


 ガサッ


 カチッ バシュッ


「ギャッ」

「ッ!」


 また、一匹の何かのどこかに銃が当たった。一瞬の閃光が映し出したものを、見る余裕すらない。

 走らないと。

 そうじゃないと、自分が先に死ぬ。


 もう方向感覚すらぐっちゃぐちゃで、さっきシーズが指さした場所と合っているかすらわからなくって。


 もしかしたら、ただ走り続けるための嘘の希望をシーズが与えてくれただけなのかもしれない、そういう可能性すら脳裏をちらついて。


「はあっ、はあっ、はあっ……!」


 疲労で焼き切れそうな頭と今にもはち切れそうな肺は生命の危険信号を出しながらも、同時に極度の疲労を思い出させてくる。


 どれくらい走っていたんだっけ。数分しか走っていないんだったか、それとももう何十分も走っているのか。


 時間感覚もない、方向感覚もない、距離感覚もとれない、そんな真の暗黒森林の中。


 空からさす星の光は、まるで太陽のようだった。


「えっ!?」


 ――――星?


 星が、なんでこんなところに。

 幻覚だろうか? 何か間違いが起きたのだろうか。


 視界の上、木の葉が生み出す暗黒の世界を打ち破るように。

 顔を上げると、いくらもの星々がそこをちらついていた。


「うわっ」


 何かに足を引っかけた。


 ばしゃりっ。


(つめたっ……!?)


 これは、なんだろうか。

 いや、違う、知っている。


(水っ!?)


 今、水に潜ったような。

 でも、なんで、こんなところに。


 星があると思ったら、水が。

 事象が交錯しすぎて、うまくわからない。


(って、これっ、顔が、水の中に――――)


 息苦しさを覚えて、ライオは両手をもがかせた。


 しかし幸いにも浅かった。すぐに地面を見つけて、手をつくことができた。


「っ、はあっ」


 水面から顔を上げて、ライオはすぐに理解ができた。

 暗黒森林に比べれば。


 満天の星空が映し出す川の景色の明るさは、白昼も同然だった。


「みずっ、て、川……!?」


 ようやく頭が追いついた。

 シーズがさっき言っていたのは、川があるということだったのか。


 今自分たちは、川の端に、脚を沈めていた。

 逆になんで自分はわからなかったのだろう。

 向こう岸まで数メートルあるほどの、かなりの川なのに。


 いや、今はそんなことはどうでもいい。


 ライオは振り返った。

 森がよく見える。


 星と月明かりに照らされた森の入り口がよく見える。

 なにも来ていない。さっき自分が撃った生き物が最後だったのだろう。


 それを確認して、ライオはシーズを背から降ろした。

 ばちゃり、水が跳ねる。体を手で支えて、水の中に倒れないようにする。

 顔を見ると、目を開いていない。気絶しているのかもしれない。


 しかし、今やることは。


 そして水の中に顔をつっこんで、一気に口の中に水を吸った。

 それから水面から顔を出して。


「んっ」


 目を閉じるシーズの口に、自らの唇をくっつけた。

 口を開け、そこに口内のすべての水を注ぎこむ。


 ごく、ごくりと。

 シーズの喉が嚥下するのが分かる。


「ぷはっ」


 もう一度。

 水に顔を突っ込んで、できる限り水を蓄えて。


「んむっ」


 また、その口の中に、水を注ぎこんだ。


「ふうっ、ふっ」


 口を離した。

 まだ起きない。

 もっと、水を飲ませた方がいいのだろうか。最初、水筒で飲ませた量が少なすぎたのが脳をちらつく。


 もう一度、水に顔をつけて。

 ぐっ、と水を吸って。

 それから、顔を出して、また唇を重ねる。


「んっ」

「っ!」


 シーズの唇が動いた。

 すぐさまライオは口を離して、水をぺっと川に吐いた。


「シー、さっ」


 慌ててその顔をみると。


「ライオさん」


 目を開いていた。


 半開きのまだ起きたばかりのような、虚ろな目。

 倒れたせいで、顔を水でぐっしょり濡らしてしまった顔。


 月明かりに照らされた彼女の髪は、どうしてか悩まし気に、とてもきれいにきらめていて。


「ありがとう、ございます」


 そんな状態で、彼女はそう口にした。


「シーさん……」


 ぐっ、とライオは奥歯をかみしめた。

 心底から、何かがこみ上げるのを感じた。


 今度は安堵の感情が、目元から落ちてきそうになる。


 ぐっ、と。


 シーズの両手がライオの肩を手にして。


「あっ、えっ」


 ふわり、と。

 自分の顔を、何か心地の良いものが包んだ。


「大丈夫です。大丈夫」


 優しい声。

 慈しむようなそんな声が、ライオの耳に響いた。


「お、俺っ」

「本当によく頑張りました」


 静かに、さえぎる声。


「あなたのおかげで、命が助かりました」


 その言葉を、耳にした瞬間。

 耐えようとしていた熱いものが、喉元までこみ上げてきた。


「っ、う」


 ぎゅっ、と。

 ライオも、シーズの背を抱きしめた。


「大丈夫です。いいですよ」

「うっ、あ」


 やわらかい。


 シーズの体はとても柔らかくて、包み込んでくれるみたいで。

 なのにとっても頼もしくて、しっかりと大人みたいで。

 この人の腕に包まれていればきっと大丈夫なのだと。

 根拠もなく、心の底から安心感からこみ上げてきて。

 最後に体験したのがいつかも思い出せないほどの、抱擁が。


 一年前だろうか、もう十年も前だろうか、いやそんなことはもうどうでもよくて。

 ただ、この人が今いてくれて、抱きしめてくれることだけが。


 いや、そんなことをもう考えてなくて、ただこの人の中で安心したくて。

 シーズの胸で、ライオは声を上げて泣いた。


「ううっ、あぁっ……!」


 そんな彼を、シーズはただ、微笑んだままに、抱き続けていた。

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