時輪の記 第5話 黄海の波、遼東の影
@Shinji2025
第5話
――視界いっぱいの白光が収束していき、代わりに潮のにおいと鉄の匂いが鼻を刺した。
耳元で、機械の歯車が小さく嚙み合う音。ポケットの中の懐中時計が温かく脈打ち、AIスマホの画面が勝手に点灯する。
> 「現在地:1894年8月 日本・広島港近く
状況:日清戦争下、連合艦隊出撃準備」
「……マジか」
思わず独り言が漏れる。目の前には、煙突から黒煙を上げる軍艦の列。甲板で号令が飛び、石炭の粉が風に舞う。港の空気はざらつき、背中の骨まで振動が伝わってきた。
「おい、そこの人。乗艦者か?」
振り向くと、肩章のついた下士官がこちらを睨んでいた。
「臨時派遣の通信補助です」僕は咄嗟に言う。
下士官は視線を上下に滑らせ、僕の格好と荷物を一瞬で採点したあと、小さくうなずいた。
「なら急げ。出撃信号が近い」
タラップを上る。足元の鉄は冷たく、しかし船体の奥からはエンジンの熱が確かに伝わってくる。僕は深呼吸をして、甲板へ出た。
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港の喧騒と小さな「現代」
甲板では、兵たちが黙々と砲弾を運び、ロープを締め、旗を張る。無駄な声はほとんどない。
「……怖い?」と僕は、横で弾薬箱を抱える若い水兵に声をかけた。
彼はびくっとして、すぐに笑って首を振った。「いいえ。――いや、正直に言えば、少し」
「怖いのは正しいよ。生きたいってことだから」
ポケットの中、AIスマホが微かに震えた。
《連合艦隊:伊東祐亨司令。推定交戦海域:黄海北方。清国北洋艦隊旗艦「定遠」確認》
(情報の出所を聞かれたら、また“遠い通信網”ってごまかすしかないか)
「そこの君」
低く落ち着いた声。振り返ると、黒い制服の男がいた。白い口ひげ、深い目。
伊東祐亨――連合艦隊司令官。
「何者だ」
「臨時の通信補助です。最新の測距法と信号……」
「ふむ」
彼は一瞬だけ僕の目を見て、海図の方へ顎を動かした。
「敵は北から来る。距離は?」
(来た)僕は甲板のはしから海の地平線を見やりつつ、AIに小声でささやく。
「観測と航速推定」
《約7,200メートル、南南西進行。隊形は散開気味》
僕はそれをそのまま口にし、海図上の位置を指で示した。
周りの将校がわずかに目を見開く。伊東は眉を動かさず、赤鉛筆で線を引いた。
「当たりだ。……君、名は?」
「新仁(しんじ)です」
「しんじ。無茶はするな。だが必要な時は前に出ろ」
(無茶をするなと言いながら、前に出ろって。どっちだよ)
心の中でつぶやきつつ、少しだけ背筋が伸びた。
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酒場の温度、港の温度
出撃まで小一時間。僕は物資積み込みの手伝いで下艙へ降り、そのあと一度だけ港の屋台に降りた。
湯気の向こう、木の台を拭く店主、熱燗の匂い。
「兄さん、温まっていきな」
「ありがとう。……熱いのを一つ」
隣では三人が言い争っている。従軍記者らしい男、塩気の強い顔の商人、まだ髭も薄い兵。
記者「勝てば国際社会の見る目が変わる。負ければ、元の鎖に戻るだけだ」
商人「勝っても港が燃えたら困るのは俺らだ。船が出せなきゃ商いにならねぇ」
兵「俺は……正直、怖い。でも、ここで引いたら、ずっと何かが腐ったままだと思う」
記者が僕を見る。「お前は?」
「僕は……“勝っても負ける”ことがあるって知ってる」
「何だそりゃ」商人が眉をひそめる。
「戦場で勝っても、机の上で負けることがある。だから今のうちに“机の上の勝ち筋”も、頭の隅で考えとくといい」
記者は目を細め、「なるほど」とだけ言い、湯呑みを手の中で回した。
兵は小さく息を吐いた。「じゃあ、俺はとりあえず……生きて帰ることを考えます」
「それが一番、むずかしくて一番大事だよ」
僕は熱燗を飲み干し、湯気の向こうに、遠くの軍艦の影を見た。
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出撃
汽笛が重低音で鳴り、空気が震えた。
連合艦隊が港を離れる。船体が水を押し、尾を引くように白波が伸びていく。
甲板では、巻いたロープが滑らかに絞られ、旗がすばやく交換され、金属のきしみが規則正しく重なる。
僕はエンジンの鼓動と同じリズムで胸が鳴っているのを感じる。
「しんじ! 測距更新!」
士官の声に、僕は双眼鏡を受け取り、AIの測算と視認を重ねた。
《6,800、南南西。敵煙幕、風下へ流れ。隊形やや乱れ》
「煙幕を嫌がってる。風向きはこっちに味方」
伊東が短く頷き、「針路、二度修正。第一撃は落ち着いて」と静かに言った。
その静けさが怖い。嵐の直前、海が息を止める瞬間みたいに。
---
黄海海戦――火と鉄と声
「撃て!」
号令は刃のように空気を断ち、砲門が一斉に火を噴いた。
腹の底がひっくり返るような轟音。空が光って、煙が押し寄せ、頬に熱と煤がまとわりつく。
右舷の先で海水が柱のように跳ね上がり、しぶきが雨のように降った。耳がきーんと鳴る。
「命中!」誰かが叫ぶ。
「外れ! 修正!」別の誰かが怒鳴る。
僕は手すりを握り直し、AIに囁く。「着弾観測。補正角は?」
《右へ0.8度、仰角+0.5。風速に対する補正値を—》
「それ短く。口で言える数字だけで」
《0.8右、0.5上》
「0.8右、0.5上!」
砲手がうなずき、再装填。次の瞬間、敵艦「定遠」の側面で火花が散った。
「よし……!」
だが、余裕は一瞬だ。
「来るぞ!」
誰かが叫ぶのと、敵弾が甲板を削ぐのはほぼ同時だった。
木片と鉄片が混じった破片が吹雪みたいに飛び、僕の頬に薄い切り傷がつく。温かい血がじわっと滲む。
「いたっ……」
「負傷者搬送!」
若い水兵の肩に破片が刺さっていて、彼の目がこちらを探す。
「目を見て!」
「……はい!」
「頭を下げて、息を吸って、吐く。痛いのは“生きてる”ってことだ。いける、いける」
彼は泣き笑いみたいな顔をして、大きくうなずいた。
甲板の向こう、火が上がる。帆布が燃える匂い、油の匂い、火薬の刺す匂いが混ざりあい、喉が焼ける。
「消火班! 帯水! 弾庫に火が入るな!」
僕はAIに「火点の優先順」を問う。
《風下側から。右舷中部、帆布→床油→弾庫通路の順》
「風下側から! 帆布、床油、通路!」
叫ぶと、消火班の動きが一瞬で整った。水の音、布が焦げる音、誰かの呻き声。
「弾がないぞ!」
運搬を仕切る下士官が怒鳴る。
「ルートが塞がってる!」
甲板下の通路で箱が斜めに倒れ、通行が止まっていた。僕はすぐにしゃがみ込み、箱の角を持ち上げて姿勢を変える。
「一個どけるより、三個ずらす。人の流れを切らすな!」
「何者だお前は!」
「ただの……“流れ”オタクだ!」
わけのわからない返しをした僕に、一瞬だけ笑いが生まれる。その一秒で、みんなの手が速くなる。流れが戻り、弾薬が砲へ、砲が火を吹く。
時間感覚が狂っていく。
さっきの一分と今の一分は全然違う。
(生きてる。他人の痛みと汗の匂いで、僕も確かにここにいる)
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近接、そして静かな「間」
遠方で敵艦のマストが折れ、煙が濃くなる。
「退いてる!」
歓声が上がるが、伊東は微動だにしない。
「追い込みすぎるな。深追いすると足をすくわれる」
彼の声には、熱と氷が両方入っていた。
僕は肩で息をしながら、手すりに額を当てる。
(勝ってる。たぶん勝ってる。でも、これは“終わり”じゃない)
AIが静かに表示した。
《戦闘評価:日本側戦術的優勢。
ただし、戦略的帰結は未確定。外交リスク高》
「……知ってるよ」
自分に言い聞かせるみたいに呟いた。
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廊下の端の、短い祈り
甲板の端で、さっきの若い水兵がぼんやり空を見ていた。肩の包帯に血が滲んでいる。
「生きてる?」
「……はい。生きてます」
「怖い?」
「……はい。でも、少しだけ、自分が役に立った気がしました」
「それだけで十分だよ」
僕は彼の頭に手を置いた。彼は子どもみたいな顔で笑った。
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勝つ、そして戻る
海は静けさを取り戻し、黒煙が薄くなっていく。艦内に広がるのは、疲労と安堵と、言葉にならない何か。
広島へ戻ると、街の空気は熱を帯びていた。「勝ったらしい」「新聞だ!」「号外!」
屋台の親父が、見知った顔で手を振る。
「兄さん、生きて帰ったな!」
「ただいま」
言ってから、その言葉の重さに自分で驚いた。
(“ただいま”って、言える場所があるのは、幸運だ)
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広島・臨時政府――机の上の戦い
「遼東半島は渡せない」
低く、乾いた声。
僕は奥の部屋の隅で、その言葉を聞いた。
テーブルを囲むのは、伊藤博文、山縣有朋。向かいにはロシアの公使、ドイツの顧問。フランスの代理もいる。
コーヒーの香りが薄く漂い、その上に冷たい鉄の匂いがかぶさるようだった。
伊藤「これは正当な戦利だ。血で払った」
露国公使「極東の均衡が崩れる。わが国の利益に反する」
独国顧問「同感だ。貴国に悪意はない。が、秩序のために」
山縣「秩序? それを言うなら、我々の犠牲はどこに置かれる」
露国公使は目を細め、わずかに肩をすくめた。「国際社会とは、そういうものだ」
AIスマホの画面の隅に、冷たい文字が出る。
《三国干渉:露・独・仏。日本に遼東半島返還を勧告。
結果:日本、屈辱を飲む》
(知ってる。知ってた。――けど、目の前で見ると、やっぱり、悔しい)
伊藤は沈黙した。彼の背中の線が、わずかに曲がる。「……国を守るための、次の一手を考えよう」
山縣は固い顔で頷いた。「勝っても“次”がある。負けても“次”がある。政治とは、次を生むことだ」
僕は唇の内側を噛んだ。血の味がする。
(ここで吠えても、ただの子どものわめきになる。僕にできるのは“次の場”での勝ち筋を、見つけ続けることだ)
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港の夜――誰かの怒り、誰かの誤解
夜、港のはずれを歩いていると、足音が増えた。
影が三つ、四つ。
「お前、見たぞ。外国人のところをうろついてたな」
先頭の男の目は荒れていた。拳は震え、酒の匂いが混じっている。
「“スパイ”か? 港で何を“測って”いた?」
(やば)
「違う。僕は――」
言い終わる前に、拳が飛んできた。顔をかすめ、背中が壁にぶつかる。
「暴れるな!」
男の一人が懐から短銃を出した。月の光が鉄に反射し、灰色の線が閃く。
「やめろ!」
僕は両手を上げた。「撃ったって、何も変わらない。君たちの鬱憤は、僕じゃなくて“机の上”に向けるべきだ」
「口が……生意気なんだよ!」
引き金が触れられる。
その瞬間――懐中時計が熱くなった。
胸の奥で、あの歯車の音が一段深く噛み合う。
世界がゆっくりになる。
男の指の動きが、蜜の中を泳ぐみたいに重くなる。
僕は、わずかに体を捻り、壁と影のあいだに滑り込む。
火花。弾丸が石に当たり、鋭い音が夜を裂いた。
「チッ……!」
「やめろ!」別の男が叫ぶ。「ここで撃ったって、何も……!」
「下がって!」
背後から宮崎の声。いつの間にか彼が来ていた。
「記事にするぞ! “勝利の翌日に、港で日本人が日本人を撃つ”って!」
沈黙。
「明日の朝刊の一面だ。お前らの顔、堂々と載せてやる」
拳の力が抜け、銃がわずかに下がる。
「……チクショウ」
男たちは舌打ちして、影の中へ消えていった。
「助かった」
「お互いさま」宮崎は肩で笑った。「お前の“ねちっこい口”は戦場でも港でも効くな」
「……褒めてる?」
「半分はな」
---
伝言と微笑
翌朝、屋台の親父が新聞を振って見せた。
「見たか! “言葉で争え”だとよ。あんたら、また変なことを書いたな」
宮崎は肩をすくめ、「変なことは、いつだって大事なことだ」と言って笑った。
僕はその笑いを見ながら、ふと気づく。
(僕は“ここで出会った人たちの顔”を、もう忘れられない)
---
ため息と針の音
臨時政府の廊下で、伊東が僕を呼び止めた。
「しんじ」
「はい」
「君は……どこか遠くを見ている。勝ち負けの先を、いつも」
「……“次”を知っているから、です」
「なら、頼む。次でも、必要な時は前に出ろ」
「無茶をするな、って言いましたよね」
伊東は、珍しく笑った。「言ったな。忘れてくれ」
僕は笑い返し、胸の時計に触れた。
針の音が、やさしく、しかし確かに刻まれている。
---
銃声、そして光
夕暮れ。港に斜めの光が差し、船の影が長くのびる。
僕は岸壁を歩き、波の音に耳を澄ませていた。
(勝って、負けて、それでも前に進む。国も、人も)
AIが静かに言う。《移動推奨。治安リスク上昇》
「またか」
振り向くと、黒い影がひとつ。
「昨日の“ねちっこい口”の兄ちゃんだな」
短く光る金属。短銃。
「やめろ。それで撃ったって――」
言い終える前に、轟音。
世界が反転する。
足元が空へ、空が足元へ。
(あ、これは、死ぬのかな)
まるで誰かの独り言を聞くみたいに、遠くで自分の声がする。
でも、その時――懐中時計が、また光った。
今までで一番強く。
胸が温かくなり、視界の端が白く侵食されていく。
音が、波の音も、怒号も、遠くへ遠くへ行ってしまう。
(次、か……)
僕は深く息を吸ったつもりになり、目を閉じた。
塩の匂いが、もう少しだけ濃くなる。
遠くで、ラッパの短い合図が鳴ったような気がした。
――僕は、まだ続ける。
懐中時計の針は、止まらない。
(第五話 了)
時輪の記 第5話 黄海の波、遼東の影 @Shinji2025
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