夏のイソクロニズム

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七月の午後二時

 七月の午後二時。

 工房の温度計は、三十二度の赤い目盛りを指したまま、微動だにしない。


 桐山瞬一きりやま しゅんいちは、作業台に広げられた懐中時計の内部を覗き込んでいた。

 額からこぼれた一滴の汗が、拡大鏡の縁を濡らす。

 エアコンは三年前に壊れたまま。

 精密作業に湿度は欠かせない──

 それは表向きの理由。

 本当は、夏の熱の中でこそ時間は最も美しく、柔らかに脈打つことを知っていたからだ。


 膨張する金属は、息を吸うようにわずかに形を変える。

 その呼吸を、瞬一は見逃さない。


「今日も暑いですね」


 カウンター越しの声に顔を上げると、アルバイトの綾瀬美波あやせ みなみが立っていた。

 二ヶ月前から働く大学生。

 まだ彼の仕事の本質は知らない。


「温度が上がれば金属は膨張する。零コンマ五度の差で、この香箱真は零コンマ零一ミリ膨らむ」

 瞬一は直径十八ミリの香箱真を、指先で静かに持ち上げる。

「人間の体温、室温、部品の温度差──三つの異なる膨張率を同時に計算して作業する。それで、完成後の精度が決まる」


 美波は首を傾げた。

「でも、最近はクォーツが主流では?」


「月差十五秒と日差一秒、どちらが美しい?」


 彼女は答えられず、瞬一は小さく笑った。

 このやりとりさえ、時計の音のように彼の時間に刻まれていく。


    ◇


 懐中時計の持ち主は七十八歳の老婦人、清水澄江しみず すみえ

 昭和三十五年製、細やかな彫刻を抱いた手巻き式。


「主人との結婚記念日にいただいたんです」

 十年前から、止まったままだという。


 分解を進めると、理由はすぐに見えた。

 香箱の中のゼンマイが、弾性をすっかり失っている。


 交換は容易だが、この年代の部品はもう製造されていない。

 現代のゼンマイを、昭和三十五年の精度にまで手で削り、研ぎ、合わせる。

 半世紀前の職人の「意図」に耳を澄ます作業だ。


    ◇


 作業中、外の蝉の声がふっと途絶えた。

 午後四時十七分。

 公園の子どもたちが帰る時間。

 蝉も、いっとき鳴き止み、街が短い静寂に包まれる。


「不思議ですね」

 美波が言う。

「そんなに細かく時間を気にして生きてるなんて」


「君は今日、何回時計を見た?」


「え?……わかりません」


「僕は百二十三回」

 淡々と告げ、微笑む。

「時間を意識するほど、時間は美しくなる」


 瞬一は、光に透かしたゼンマイを見つめた。

 厚さ零コンマ一ミリの鋼の帯が、らせんに巻かれている。

 その小さな金属に蓄えられた力が、秒針を動かし、世界を刻む。


「これは五十年前の時間なんだ」


    ◇


 夕方。

 美波が帰った工房に、時計の部品だけが残る。


 現代のゼンマイを、零コンマ五ミリずつ削りながら調整する。


 金属疲労の癖。


 巻き上げの減衰曲線。


 そして、五十年前の職人が込めた見えない思想。


 部品は整然と並び、それぞれ固有の時間を抱えている。


 文字板。

 針。

 歯車列。

 香箱。

 テンプ。


 それらを調和させたとき、止まった時間は再び動き出す。


 テンプの振動数は一分間に一万八千回。

 人間の心臓の百八十倍の速さで鼓動し、それでも人の生涯を超えて同じリズムを刻み続ける。


    ◇


 八月初め。

 澄江が工房に来る。


「できましたよ」

 修理を終えた懐中時計を差し出すと、彼女は耳に当てた。


 五十年前と同じ呼吸──

 音は空気を震わせ、胸の奥へ沈み、眠っていた日々を呼び覚ます。


 春の匂いのする朝。


 赤子の産声。


 最後の別れの午後。


 それらが秒針の歩みとともに蘇ってくる。


「ありがとうございます──」

 涙が滲む瞳。

 瞬一は黙ってうなずいた。


 美波が問う。

「赤字じゃないんですか?」

「そうだね」

「どうして?」

「あの中には、十数億秒を生きた記憶が今も静かに呼吸しているから」


    ◇


 八月の終わり。

 美波が言った。

「今日でアルバイト最後です」

 予想していたはずの別れなのに、工房の空気が少し冷たく感じられた。


「大学が始まるので……」

「そうか」


 帰り支度をしていた彼女が、ふと手を止める。

「ねえ、桐山さんって……時計がない世界では何してると思います?」


 瞬一は笑った。

 そんなこと、考えたこともなかった。

「さあ……たぶん、落ち着かなくて一日中そわそわしてると思う」

「うん……そんな気がします」


 美波は最後に笑った。

「また、時間の中で迷子にならないでくださいね」

 その声は蝉の声が薄くなった午後に、静かに溶けた。


    ◇


 九月。

 工房は再び静けさを取り戻す。

 新しい依頼は昭和四十年代の自動巻き。

 ローターが重く、巻き上げが鈍い。


 瞬一は歯車を光にかざす。

 何百万回転もの運動で一年を刻む、小さな金属の歯。


 外では秋の虫が鳴き始めた。

 違う季節、違う時間の流れが始まっている。


「美しい」

 小さく呟き、再び作業に戻る。

 油の一滴、一本のバネ、一つの歯車。

 それらが組み合わさるたび、止まった時間が静かに息を吹き返す。


 その合間、ふと、カウンター越しに声が聞こえた気がして、顔を上げる。


 工房の時計が午後六時を告げた。

 今日もまた、時間は美しいまま流れていく。

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