第四話 彼女の選択

「どうしたんだ、ミィア?」


 真剣な顔で見つめるミィアに、少し戸惑うカイル。

 ミィアの顔からは涙の雫が消え、虚ろだった瞳の奥に、これまで宿ったことのない、硬質で冷たい光が灯っていた。


「私の力は、正義の為に役立つような素晴らしいものではありません」


 凛とした、それでいてどこか壊れてしまいそうなほどか細い声が、静まり返った大聖堂に響く。


「人々を少しだけ幸福にするだけの、ささやかな力。でも……ただの一度だけ、たった一人――自分の願いを叶えるためだけに使っても、神様は許してくださるでしょうか……」


 そうつぶやくと、ミィアはそっと両手を胸の前で組んだ。それは祈りの形に似ていたが、神に捧げるものではない。自分自身の、あまりにも身勝手な願いを成就させるための儀式だった。

 これまで、ずっと他人のために力を使ってきた。組織のため、信者のため。自分の意志とは無関係に、ただ求められるまま力を差し出してきた。


 だから、一度だけ――


「君は…何を……?」


 カイルの顔の戸惑いが広がった。何かを感じたのか、聖剣を握る手に力がこもる。その目前で、ミィアの身体から光の粒子が立ち昇った。それはこれまでのような人々を癒す柔らかな光ではない。もっと密やかで、意志的で、まるで蜘蛛の糸のように、真っ直ぐにカイルの心へと伸びていく、どこか禍々しささえ帯びた光だった。


「な、なんだ、この光は――!?」


 驚いたカイルが、ミィアから身を離す。そして手にした聖剣を構える。が――すでに遅かった……


「これは――」


 光の糸はするりと彼の心の隙間に入り込み、その中核にある「正義」という名の楔を、いとも容易く引き抜いた。そして、空になったその場所に、ただ一つの感情を植え付ける。


『私を愛して!』


 ミィアは、生まれて初めて、自分の力を、自分のためだけに使った。


 これまで押し殺してきた欲望――愛されたい。大切にされたい。誰かに必要と――利用されるのではなく、人として必要とされ、そして愛して欲しい……


 その願いを込めた光が、勇者の心に入り込む。


「あ…あぁ……俺は……」


 カイルの瞳から、正義の光が消え失せる。数秒の間の虚ろな表情の後、彼の瞳に宿ったのは、先ほどまでとは比較にならないほどの熱を帯びた、ひたすらに甘く、狂的なまでの愛の色だった。

 カイルは、まるで絶世の至宝にでも出会ったかのように、うっとりとしたため息を漏らし、手にした聖剣をその場に落とした。そして、ミィアに近づくと、壊れ物を扱うかのような手つきで、彼女の肩をそっと掴む。


「ミィア……」


 カイルの声色が変わった。そこには、先ほどまでなかった特別な響きを含んでいる。


「君は……なんて美しいんだ」


 ミィアは罪悪感と満足感の間で揺れていた。これは偽りの感情だと知っている。カイルが今感じているのは、彼女が作り出した幻想に過ぎない。でも、それでも──


「俺は、君と出会うために…君を救うために、ここに導かれたのだね……」


 その言葉は、もはや正義の徒――勇者のものではない。一人の男が、愛する女を前にして紡ぐ、甘美な囁きだった。


「俺は君を愛している」


 カイルがそう囁いた時、ミィアの胸は高鳴った。偽物だとわかっていても、誰かに愛されるという感覚がこれほど甘美だとは思わなかった。


「……」


 ミィアは、何も答えず、そっとカイルの胸に倒れ込んだ。カイルのたくましい腕が、少女の身体をきつく抱きしめる。


 ドクン、ドクン……


 うずめた胸から、力強い心臓の鼓動が響いてくる。それと同時に、彼の体温も伝わってきた。


(温かい……)


 彼の腕の中は、不思議なほどに温かかった。もう誰かに利用されることはない。搾取されるだけの道具として扱われることもない。ただひたすらに、このたくましい腕の中で守られ、愛されて生きていくことができる……


 その事実に、心の底から安堵している自分がいた。


 でも――


(私は、あなたから“本当のあなた”を奪ってしまった……)


 同時に、激しい罪悪感がミィアを襲う。

 カイルは世界を救うはずの勇者だった。悪を憎み、正義を実行する希望の光だった。その彼の心を捻じ曲げ、自分一人のためだけの存在に変えてしまった。隷属の首輪から解放してくれた恩人の心を、自分はもっと残酷な方法で縛り付けてしまったのだ――


「愛している……これからはずっと、俺が君の側にいるよ。何者も君を傷つけさせはしない」


 耳元で囁かれる愛の言葉は、蜜のように甘く、そして毒のように彼女の心を蝕んでいく。これが作り物の感情であり、偽りの愛であることは、他ならぬ自分自身が一番よく分かっていた。人々につかの間の幸福感を与えていた自分が、今、自分自身に決して覚めることのない偽りの幸福を見せている。なんと皮肉な結末だろうか。


 ミィアは、カイルの胸に顔をうずめたまま、そっと瞳を閉じた。一筋の涙が頬を伝い、彼の白銀の鎧に吸い込まれて消える。それは喜びの涙か、それとも哀しみの涙か……


 偽りの愛に包まれながら、ミィアは泣いているのか笑っているのかわからない、複雑な微笑みを浮かべていた。もう二度と、彼女が誰かのために力を使うことはないだろう。


 ――もう彼女は聖女ではない

 ――そして彼も勇者ではない


 ミィアが創り出した、愛という名の優しく美しい牢獄の中で、ふたりの、永い永い偽りの幸福が、今、始まった……



fin

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首輪をつけられた聖女、その最後の物語 よし ひろし @dai_dai_kichi

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