第十三節 月が見ている②
深夜の貧民窟を、二つの人影が走っていく。追う者と追われる者。「彼」と中嶋だ。
無我夢中で逃げる「彼」が行き着いたのは、かつて「彼」が暮らしていた貧民窟だった。長屋が入り組んで立ち並ぶこの場所なら、なんとか身を隠して中嶋をまくことができるかもしれないとふんだのだ。
しかし、「彼」にさまざまなことを教えたのは中嶋だ。当然、こういう場合に「彼」がどういう行動をするかなんてよく知っているはずだった。しかも「彼」は今、冷静さを保っているとは言えない状態である。
結果、「彼」は中嶋に見つかってしまった。今も「彼」の後ろに迫ってきている。
(でも、思っていたよりまだ逃げられている)
雨上がりで足場が悪いからなのか、それとも歳による体力の差からなのか。中嶋の動きは、「彼」が思っていたよりも悪い。見つかったら終わりだと思っていたが、まだ捕まらずにいることに、「彼」は少々驚いていた。
ばしゃりと跳ねた水たまりに、そういえば、と「彼」は思い出す。「鬼童子」が女を殺し損ねたあと、おそらく逃げた女を殺してから「彼」の目の前に現れただろう中嶋は、少し様子がおかしかった。
『殺せないのか』
中嶋は、「鬼童子」にそう問いかけた。何かを確かめるように。そんなことをするよりも前に斬りかかっていれば、ことは早く済んだだろうに。そんな一言を「彼」にかけたのは、「彼」からすれば意外なことだった。
貧民窟の道は入り組んでいる。一番大きな通りから枝状に少し細い通りが伸びて、その通りからもっと細い道が伸びている。
今「彼」はその細い道を、袋小路を避けながら逃走している。途中何度か道端で寝ている浮浪者やごみに足を引っかけそうになったが、なんとか体勢を崩すことなく避けることができた。
だがこのままではいずれ体力はつきる。どこかで中嶋をまくか、迎え撃つしかない。そんなことを考える「彼」が道を右へと曲がると、前方に崩れた長屋が見えた。
このあたりでは先日大きな地震があったばかりだ。その際に崩れたのかもしれない。それがまだ片づけられずに置いてあるのだ。さきほどから、いくつかそんな長屋を見かけていた。
住居部分は見事にぺしゃんこになっているが、その上にあった屋根はまだ崩れきらず、積み重なった木材の上から少し張り出すような形で、上に乗っている。それがちょうど傘になって濡れないからか、乞食の子どもがその下で座り込んで眠っていた。そんな様子をなんとなく目で追って、「彼」はまた道を曲がる。
だが、「彼」がその長屋を背にしたときだった。みしりと、音がした。次いで、がらがらと何かが崩れる音がする。何事かと思わず振り返ると、信じがたい光景があった。
さきほどの嵐で、廃屋がその均衡を崩しはじめていたのだろう。もとからぺしゃんこだった木材たちは、さらに崩れて、雨を避けて眠っていた子どもに襲いかかろうとしていた。
そこまではいい。問題は、その後だった。
子どもを呑み込もうとする屋根に向かって、中嶋が突っ込んでいく。そして建物の下に滑り込み、子どもを突き飛ばし――
崩壊が落ち着いて、「彼」は立ち止まった足を動かした。中嶋に突き飛ばされた子どもは、道端で気絶している。だが特に外傷はないようで、時間がたてば目を覚ますだろう。
そして中嶋は――その口から、血を流して倒れている。その下半身を、廃屋の雪崩に呑み込まれて。
動けない中嶋の前に、「彼」は立つ。目の前の男がしたことが、信じられない。嵐の中で見知らぬ女をかばった男の姿が、目の前の鬼に重なる。
どうしてそんなものが、この男に重なるのか。「鬼童子」にはわからない。「彼」の知っている中嶋という男と、今目の前にいる男は、果たして同じ男なのだろうか。そんなことすら思う。
「彼」に人を殺すことを教えた男。「彼」が失敗すればその頬をひっぱたいてきた男。人を殺して飯を喰らう、「彼」と同じ人でなし。
「彼」は、自分の記憶にある中嶋の姿を頭の中で反芻した。目の前で下敷きになっている男の面影が、果たしてそこにあっただろうかと、確かめずにはいられなかった。
「あっ」
そして、思わず声を出した。
一つだけ、頭の隅に引っかけるモノがあった。それはまだ、「彼」が中嶋の元で暮らしていたときのことだ。
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