第四節 追憶、暗香、赤い球体②
通夜を過ごし、葬式をとり行った。鮮やかな木々の紅葉を忘れさせるような、白い喪服たち。板の間の上の棺桶。寺の住職が木魚を叩く単調な音と、抑揚のついた読経。
棺の中の母の顔を見たときに、ちゃんと涙を流せていたのか、アケは思い出せない。
あとから振り返ってみれば、アケは通夜や葬式の間にあったことをあまり覚えていないのだ。読経を聞いている間お焼香の匂いがしていた気もするが、どんな匂いだったか思い出せない。
それ以上に、ずっと甘い匂いがしていた。ザクロのような、甘酸っぱい匂い。家の中にも、火葬場にも、寺にも、その匂いが満ち満ちていた。
家の中はともかく、火葬場にザクロの実など置いているはずもない。
いったい、この匂いはどこからしているのだろうか。ぼんやりと読経を聞きながら、そんなことを考えていたことだけは覚えていた。
四十九日が終わって、アケはふとしたときに母の残していった足跡を感じることが増えた。
それはなかなか見つからなかった梅干しや梅酒の壺が見つかったときであったり、棚の間からちょっとした書き置きがでてきたときであったり。本当に、少し気を抜いているとすぐ、アケは母の生前の気配を拾い上げてしまう。
母が亡くなったのはほんの数か月前のことなのに、そういうものを見つけると、三人で暮らしていたときがずいぶんと昔のことのように思えた。
そういうときはいつも、アケは鼻の奥がツンとした。ぽっかりと開いた穴が、彼女の横に佇んでいる気がした。母の残した足跡を見つけるときはいつも、同時にこの家に母がいないという空洞を見つけるときでもあった。
祥吉は、アケ以上に落ち込んでいた。表面上はアケに笑って見せるが、それが空元気だなんてことは、アケは気がついていた。
毎夜、アケが眠ったのを見計らって、祥吉が酒を飲みながらすすり泣いているのを、彼女は知っていた。畑でもときどきぼんやりしているのだと、近所の人から聞いていた。
あんなに明るかった父が毎夜ふさぎ込む姿を見るのは、アケも辛かった。なんとかして父には元気になってほしかったが、これといっていい方法が思い浮かばず、そのまま寝付くのがアケの日常となっていった。
相変わらず、家の中にはザクロの匂いが満ちていた。
決して、鼻につくような匂いではない。むしろ、アケにとってはとても香しい匂いに思えた。
しかしいくらいい匂いであれ、なぜこんなにも長く、家中にザクロの匂いがしているのかわからず、気味の悪い現象ではあった。
台所や庭でザクロの匂いがするのならわかる。台所には、ザクロの実やそれを乾燥させたものがたくさん入れてある棚がある。父が山で採ってきたものや、庭に何本か植えてある木から収穫したものだ。
だが、匂いは台所だけでするわけではない。居間でも、納戸でも。家の中のどこにいても、甘酸っぱい匂いが鼻に届く。だからおそらく、匂いの原因はザクロの実ではないのだろうと、そうアケは思っていた。
しかし、アケはそれを決して父には話さなかった。いや、話せなかった。母を失ってふさぎ込む父に、これ以上の心労をかけたくなかったのだ。
冬がきて、雪も深くなる時期になった。
ある日アケが父の半纏のほつれを直すために、納戸で裁縫道具を探していると、見慣れない布が目に入った。
真新しい布地というわけではないが、アケがあまり目にしたことのない柄の布地。気になってアケが引っ張り出してみると、それはどうやら半纏のようだった。それもまだ、縫いかけの。
全部で三着でてきた半纏は、母のつばきが作りかけていたものなのだろうと、アケにはすぐに察しがついた。父の半纏がかなりくたびれていたから、新しく作ろうかと、秋の初めに言っていたのだ。
三着の半纏は、うち二着はあと少しで完成するといったところだ。きっとあの母のことだから、自分の分を後回しにしたんだろう。アケはそう思うと、苦々しく笑った。また一つ、もういない母の面影を見つけてしまった、と。
数日後、アケは夕食のあとに父を呼び止めた。
どうかしたのかと首を傾げる父の目の前に、彼女は三着の半纏を差し出した。藍色と白の細い縞模様のものと、薄いえんじ色のものと、赤い花の模様が入ったもの。父が藍色の半纏を広げると、ところどころ縫い目は荒いが縫い残しはなく、きちんと完成していた。
母が作りかけていた半纏を、アケが三着とも仕上げたのであった。
「これ、母さんが途中まで作ってたんだ」
薄いえんじの半纏に浮かぶ小さな白椿を指でなぞりながら、アケが呟く。その指には、いくつかの刺し傷ができている。母に似ず裁縫が得意でないアケでは、完成させるのに時間がかかってしまった。
二人の目の前に広がる、三着の半纏。もう袖を通されることのない母の分など、作り上げる必要はなかった。
しかし母の分を未完成のままにしておけば、この半纏を見るたびに、縫い終わらなかった母の姿を思い出してしまうのではないか。そうすればまた、母のいない空白を感じることになるのではないか。そう考えるとまた鼻の奥がツンとして、アケは針を持つ手を進めるしかなかった。
祥吉は、座卓の上に置かれたつばきの分の半纏を手に取った。まじまじとそれを見つめると、その瞼はゆっくりと大きく見開かれていった。
「これは、この柄は」
可憐な白椿が、くしゃりと萎む。そして祥吉の手に握られた半纏と同様に、彼の顔もくしゃくしゃに歪んで、涙とともに半纏に押しつけられた。
父曰く、その半纏は母が若いころ――ちょうど父に嫁入りをしたころに、彼が彼女に贈った着物を、仕立て直したものだったのだ。自分の名と同じ小さな椿が点々と咲くこの柄を、母は大層気に入って、大事に着ていたのだと父は語った。
二人ぼっちの家に、濁った嗚咽の音と、鼻をすする水音が響く。半纏に顔を埋めて嗚咽を漏らす父親に、アケはかける言葉が見つからなかった。彼女がこんな姿の父を見るのは、初めてだった。
どうすればいいかわからずに、さりとてこのままこんな父の姿を見続けるのも忍びなく、アケはすっと窓の外に目を逸らした。
すでにほとんど日も暮れて、星明りの見えない空は濃い青灰色に濁っている。ああ、雪が降りそうだ。ぽつりと、そんなことを呟いた。
こんなときでさえ、あの甘いザクロの匂いは彼女に付き纏い、さらにその匂いを濃くさせていった。
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