第四節 追憶、暗香、赤い球体①
隠岳山よりも北に山を三つ四つ越えたあたりの山間に、一つの集落がある。そこに、子に恵まれない一組の夫婦があった。夫は名を祥吉、妻はつばきと言った。
ある日、祥吉は空が明るみはじめたころに家をでた。前日は季節外れの酷い嵐で、道はぬかるんで彼の履物を泥だらけにした。だが彼はそれを気にする暇もないといった具合で、早足で自分の田畑への道を歩いていた。
昨夜、祥吉はごうごうと唸る雨風の中、眠るに眠れぬ夜を過ごしていた。先日植えたばかりの苗や稲がどうなっているか気になって仕方なかったのだ。ゆえに一刻も早く稲や苗の様子を見ようと、朝一番で家を飛びだしてきたのだった。
通いなれた道の途中、祥吉はふと、何かか細い声を聴いた気がして足を止めた。猫の子の鳴くような、高い声だ。
ふっと、声が聞こえてきた方向を見ると、石段の上に鳥居がそびえ立っている。集落の鎮守の杜だ。祥吉は田畑のことが気になっていたが、それ以上に聞こえた声が気になって、泥だらけの足で石段を上ってみることにした。一段上がるごとに声は大きくなる。そして上がりきったところで見つけたものに、祥吉は目を丸くした。
鳥居の下で声を上げていたのは、小さな赤ん坊だった。まだ乳飲み子で、泥がところどころについた布でくるまれて、たった一人で泣いている。本来なら母の腕に抱かれているはずのそれを、祥吉は慌ててその太い腕で抱き上げた。
抱き上げてその赤ん坊をよくよく見て、祥吉はまた目を丸くした。朝焼けの赤い日に照らされた赤子の、まだ少ない毛は白く、真昼に見る月のようであったからだ。
これは尋常ではないと、祥吉はすぐに境内に駆け込み、神主を起こしてことの次第を伝えた。
神主は赤ん坊の白い毛を見ると、しばらく考え込んでから、これはきっと吉祥の証だと言った。
神の使いや神に関わる動物は、因幡の白兎然り稲荷の狐然り、白い毛を持つことが多い。この神社が祀る氏神も、その使いは白い蛇だという。そんな神社の鳥居の下に棄てられていた赤子が白髪であるのなら、それはきっと神様が遣わした子に違いないだろう、と。
子に恵まれない自分が、神社でこの子を拾ったのも何かの縁だろう。そう考えた祥吉は赤子を家へ連れ帰り、妻のつばきとともにこの赤子を自分たちの子として育てることにした。
赤子には、アケという名がつけられた。明け方に見つけたということと、瞳の色が綺麗な朱色をしていることにかけた名。そしてその人生に陽の射さない暗い出来事があっても、必ず夜明けが訪れるように、という意味を込めた名だ。
アケは夜泣きもせず、ただ一つのことをのぞけば手のかからない子どもだった。
彼女が両親を困らせた、「ただ一つのこと」。
それは、彼女はどうやら、ザクロ以外のものを食べてもまったく味を感じないらしい、ということだった。
アケは乳離れをしはじめたころ、与えられたものはなんでもほどほどに食べる子どもだった。すりつぶした野菜も粥も、特に好き嫌いをする様子がない。我が子に好き嫌いがないのは夫婦にとって喜ばしいことであったが、同時に二人は、妙な違和感を覚えていた。
あるとき、祥吉は山からザクロの実を持ち帰った。山の中には何本か密集してザクロの木が生えている場所があり、その中の一本がとても大きな実をいくつもつけていたので、何個かそれをもいできたのだ。
熟して食べごろの赤い実は、割ると香しく、つやつやとした宝石のような果肉がびっしりと詰まっていた。
これはいいものを採ってきたと祥吉がにんまりしていると、つばきに抱きかかえられていたアケが急に声を上げた。その切羽詰まった声に祥吉が振り向くと、アケは母の腕の中でいつになく必死に腕を伸ばして、祥吉の手にある実を掴もうとしていたのだった。
それまで特に食べ物への執着を見せたことのなかった娘が、実を掴めないことで泣きだしそうになっている。
娘のいつもと違う反応に驚きつつ、つばきはザクロの実を少しつぶしてさじ一杯ほどをアケに食べさせた。
するとアケは今までになく喜んで、声を上げてきゃらきゃらと笑った。娘のうれしそうな顔を見て、夫婦も顔を見合わせて互いに笑みを零したものだった。
しかしその次の日から、アケは食事に何を出されてもあまり関心を示さなくなってしまった。すりつぶした芋も人参も、粥も前ほどには食べてくれない。味が問題なのかと、塩だの酢だの砂糖だのを少し足してみても、何も変わらない。
唯一、ザクロの実をすりつぶしたものを入れたときだけ、アケはよく食べた。
これはおかしいと思って、夫婦はアケを医者に見せた。医者は長い間唸ったあとに、どうやらこの子はザクロ以外の味を感じないらしい、と二人に告げたのだった。それまでなんでも好き嫌いなく食べていたのは、あのザクロを口にするまで、彼女には味という概念がなかったからだった。
二人は、アケの味覚のことについて、集落のほかの者には言わないことにした。ただでさえ奇異な容姿に、それ以上何か異常があると知られれば、アケが集落の人々にどう思われることか。夫婦はアケが心ない言葉を浴びせられるかもしれないと思うと恐ろしく、アケ自身にも、自分の舌のことについては誰にも言ってはならないときつく言い聞かせた。
アケはすくすくと育っていった。白い髪に赤い瞳は狭い田舎では奇異なものであったし、よくない噂話がまったくなかったわけではない。しかし神主の言葉や助力もあり、夫婦が考えるよりもずっと自然に、アケは皆に受け入れられていった。
アケは明るく、少し不器用だが妙にお節介焼きなところがあった。よく同じ集落の幼い子の世話をして、赤子を泣き止ませるのが得意だった。
またとても活発で、家の中で母に裁縫を習うよりも、父とともに山を歩き回るのが好きだった。猟師でもあった祥吉はそんなアケを可愛がり、彼女に野草の見分け方や山の天気の読み方、獲物の捌き方などさまざまなことを教えた。
一家は血の繋がりこそなかったが、集落のほかの家と変わらない、穏やかな時間を共に紡いでいく家族だった。
朝には娘が父を起こしに家の中を走る音が聞こえた。
昼には畑にいる夫に、弁当を届けに来たと手を振る、妻の声がした。
夕には母が菜っ葉を切る包丁の音を聞きながら、娘が竈に薪をくべた。
夜には三人の静かな寝息が、しんとした家の中でかすかに聞こえていた。
しかし、穏やかな時間はいつまでも続くわけではなかった。
アケが少女と呼ばれる時代もあと数年となった年の、秋の初めのこと。
その日は近所の人に今年最後の梨を貰ったから、夕食後に食べようと、アケは母とそう話していた。
成長しても、アケの味覚は治らないままだった。
しかし、もしかしたら何かの拍子に治るかもしれない。もしくは、ザクロ以外でも味を感じるものがあるかもしれない。そんなことを期待して、夫妻はアケに出来るだけいろいろなものを食べさせるようにしていた。
母が夕食の支度をしている最中。アケが薪を取りにいこうとすると、炊事場から大きな音が聞こえた。
皿が割れる音、おたまがその破片にぶつかる高い音、零れる水の音。そしてひときわ大きい、何か大きな水袋のようなものが倒れる音。
アケは、大きくなりはじめた火を気にしながらも、そろりとその場を離れた。何かあったのだろうか。アケの足はゆっくりと炊事場へ向かった。
勝手口から、そっと炊事場の様子を見やる。母の姿がない。どこへ行ったのだろうかと、アケは一歩踏み出して、止まった。
割れた皿と、零れた水と、床に転がった調理器具。その中で、母が倒れていた。
アケは次の瞬間、転がるようにして母のそばに駆け寄った。母の肩を掴んで、「母さん、母さん」と叫びながら肩を揺らした。母は目を閉じたまま、アケが何度呼びかけても返事をしない。
そのうちに、帰ってきた父がアケの叫びを聞きつけて台所へと駆け込んできた。台所で倒れこむつばきと、その肩を揺らすアケ。アケが気づいたときには、父は医者を呼びに家を飛びだしていた。
アケの家から、一人分の声が聞こえなくなった。母は、助からなかった。医者曰く脳の病が原因だそうだった。
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