第三節 宵闇、鈍色、悔恨の息②

「どうして、喰わなかったんだ」

 翌朝、ガランはアケに白湯を飲ませてそう問いかけた。


 昨夜。駆け落ちの二人が家を飛びだしていってすぐ、ガランは雪の舞い込む木戸を閉めると、アケのそばに膝をついて彼女の様子を見た。アケは魂が抜けてしまったように口を開いて、何か言葉になりきらない小さな声を呟いていた。

 気が触れてしまっている彼女を抱きかかえると、彼は囲炉裏のそばに彼女を下ろして、火を大きくした。瞬きを忘れてしまったのか、大きく見開いたままの彼女の瞳に、囲炉裏の炎がちろちろと揺れる。その様子を、ガランはただ無言で見つめていた。

 しばらくすると、瞳の乾きに瞬きを思い出したのか、彼女の瞼がゆっくりと閉じて、開いてを繰り返すようになった。それを見てガランは再び囲炉裏のそばに寝転がったが、眠りはせず、ずっとアケの様子を見ていた。

 日が昇るころになってようやく、アケは崩れるようにして横になり、少しの間眠ったのだった。


 換気のためにと少し開けた障子窓の向こうで、空は鉛色に沈んでいる。いつもならガランはとっくに家をでている時間だ。だが今日の彼はただ囲炉裏のそばで、濁りきって動きもしない曇天を眺めている。

 ああ、これは今夜、雪が降るのかもしれない。ガランはそんなことを考えて白湯をすすった。

 しかし彼は、山の空の機嫌を伺うのが並外れて得意というわけではない。だから半分ぐらい、この予感は外れるだろうとも思っていた。山の天気は変わりやすいものだと聞いていたが、ここに来てから彼はそれを痛いほど実感することとなった。最初の晩も、あれほど雪が降るとは思っていなかった。

 こういうとき、いつもならアケが今日は雪が降るだの、風が強いだの、家を出ていくガランにぼそりと呟くのだ。そして、これがよく当たるのだった。

 しかし今日は、そのアケも何も言わない。ガランと同じく白湯をすすって、彼女の瞳と同じ色の炎がゆらめく様を、呆然と見つめている。だが白湯を飲んで少し体が温まったからか、夜明け前よりも顔色はいい。

「雪が、降りそうだ」

 ぽつり。小さな声が、湯気を揺らした。か細く頼りないそれに、ガランは目を見開いて振り向く。

「あの日も、こんな冷たい空だった」

 昨夜よりはよくなったとはいえまだ白い顔で、アケが呟いている。その瞳はいつの間にか炎から離れ、灰色の空を見上げていた。

「父の顔を、思い出した」

 脈絡もなく、彼女はそんなことを呟く。降り始めの雪のように、ぽつりと、一片。それがガランの問いへの答えだと彼が気づくのには、少し時間がかかった。

 アケの父親。それはおそらく、彼女に野草の見分け方や、ウサギの捌き方を教えたであろう人物。

「父は、善良な人間だった」

 ぽつり、ぽつりと、初めの雪を追って降るボタン雪のように。心ここにあらず、覚束ない口調で、アケは言葉を紡いでいく。

「捨て子だった私を、自分の娘として育ててくれた」

 アケの瞳には、昨夜の常人ならざる光はもう灯っていない。手に握られているのは刃ではなく、温かい湯気を立てる湯呑だ。

「それを、私は。あろうことに、私は」

 ガランは、アケの目尻に何かが光っているのを見つけた。彼には、それが何なのかすぐにはわからなかった。それはおよそ人ならざる者、ある意味での「人でなし」というものには、あまりに縁遠いものであったからだ。

 光るそれはやがて彼女の目尻から溢れて、一筋、頬を流れ落ちた。


「喰った。喰ってしまった。ほかでもない、己の父を」


 静かに、ただ静かに。アケは言葉を紡いでいく。それはきっと、すぐそばで耳を傾けるガランに向けてではないのだろう。己自身に向けて、彼女は語っているのだ。

 己に何があったのか。

 なぜこの隠岳山にくることになったのか。

 白く煙る湯気の向こう、同じ色の唇が、開いて閉じる。

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