第二節 朱色、月空、囲炉裏の火②
夜が明けて戸の隙間から朝日が漏れるころ、ガランは目を覚ました。娘は相変わらず部屋の隅で膝を抱えて俯いていて、起きているのか寝ているのかもわからない。
ガランは身を起こすと肩、腕、手の順番でゆっくりと力を入れて体を伸ばし、足も同様にぐっと爪先まで伸びをする。それから起き上がると、喉の渇きを覚えて、何かないかと家の中を探しはじめた。
家の間取りは、木戸から入ってすぐが三畳ほどの土間になっており、木戸から入って右側に竈がある。その奥に囲炉裏のある四畳半の板の間があり、そのまた奥に三畳ほどの部屋がある。家の中にはいくつか棚だのなんだのと家具があり、少々古いものの、まだ使用するのに不都合はなさそうなものが多かった。家自体も古く少々埃っぽいが、冬の寒さから身を守るのには支障ない。
ガランは見つけたやかんに雪を入れ、囲炉裏に火を灯すと、その上の鉤棒にやかんを引っかける。こうしておけば、そのうち雪が溶けて飲めるようになるだろう、と思ってのことだ。
雪が溶けるのを待つ間、ガランは集落で聞いた話を思い出していた。
話によると、この山には少し前までほかの土地から移ってきた偏屈な猟師が住んでいて、先の夏に亡くなったのだそうだ。しかし猟師は厭世家で集落の人間とも深く付き合うことをしてこなかったため、彼の親族を知るものは誰もいなかった。だから葬儀は集落の人々でとり行ったが、猟師の住んでいた家をどうしたらよいかわからず、山の中でそのままになっているということだった。
この家がその猟師の家なのだろうと、ガランはやかんの口から立ち上る湯気を見ながら考える。人喰い鬼を見つける拠点にしようと思って聞いておいた大体の位置とも一致している。あんな時間に麓に引き返さず山を登っていたのも、この家の話を聞いていたからだ。まさかそこに目的の相手もひそんでいるとは思っていなかったが。
ぴくりとも動かない人喰いの娘を横目に、ガランは見つけた湯呑に湯を注いですすった。それを終えると再び立ち上がって、家の中を物色する。
奥の部屋の棚に小刀が入っているのを見つけたので、ガランはそれを拝借して懐に入れた。
それから背負い籠と小さい桶も持って、ガランは家をでた。山を下るためではない。このあたりを散策するためだ。
彼とてまったく食料を持たずにこの山へ登ってきているわけではないが、いつあの娘が彼の望みを叶える気になるかはわからない。そうなると当面、食料と水の確保は必須となる。彼としては、望みを叶える前に飢え死にするのは勘弁したいところであった。
まずは昨夜見られなかった、家の裏手を見てみることにした。裏には井戸と、小さい畑らしきものがあった。ガランが井戸の中に小石を投げ入れてみると、水の跳ねる高い音がしたので、どうやら凍ってはいないようだ。縄は古くなっているが滑車もちゃんと動いたので、中にバケツを入れて水を汲んでみる。汲み上げた水は透き通っていて、虫も湧いていない。これなら、いちいち雪を解かしたり沢まで水を汲みにいったりする必要もなさそうだ。
畑も見てみたが、夏から人の手が入っているようには見えず、春になっても収穫は期待できそうにない。そも、獣除けに立っている案山子と足が雪に埋もれてしまっている柵のおかげで、どうやらそこが畑であるとわかる程度で、土はほとんど雪に覆われてしまっている。柵の足のあたりから少しばかり顔を見せる野草が、どうやら食べられる種類のものらしいということが、唯一の救いか。引き抜いた野草の葉の形を見ながら、ガランはため息をついた。
家の周りを散策し終えると、彼は昨日来た道とは反対の方向に歩きはじめた。沢でも見つかれば、もう少し何かあるかもしれない。そう思って、少し近くを見てみることにしたのだ。
幸いにも、彼は家からそう遠くないところで沢を見つけた。澄んだ水の流れは細いが、大きな岩の下あたりはなかなかの深さがありそうで、一瞬だが魚の影も見つけることができた。岸辺の、ガランの両手をあわせたぐらいの石をひっくり返すと、冬眠中のサワガニが顔を出した。火を通せば食べられると聞いたことがあったので、ガランは持ってきていた桶にサワガニを放り込んだ。
沢の岸にはいくらか野草も生えていて、針葉樹の葉よりも鮮やかさを保った緑色が、雪によく映えている。
ここに来るまで、ずっと白で覆いつくされた殺風景な景色ばかり見てきたせいだろうか。ガランには、この沢のあたりだけが寒々しい世界で生命が育まれることを許されているように思えた。
それからサワガニを数匹と、食べられそうな野草を収穫して、彼は家への帰路についた。
野草の知識は、寺にいたときに住職やその弟子に習ったものだった。
おひたしにするといいもの、粥に入れるといいもの、汁物にするといいもの。葉を食べるもの、茎を食べるもの、根を食べるもの。火傷に効くもの、煎じれば解毒に使えるもの、よく似ているが毒があるもの。旅にでるなら必要になることもあるかもしれない。そう言って住職はガランに草花の姿が線密に描かれた本までも持たせてくれた。
死に場所を求めて旅にでる者に、生きるための術を授けるなんて奇特なことだと、そのときの彼は思っていた。しかし、今こうして彼はその教えに助けられている。それがありがたいやら、気恥ずかしいやら。家に戻る道中、ガランは何度か苦笑いを浮かべた。
家に戻って戸を開けると、娘はガランが出ていったときとまったく同じ体勢で、部屋の隅に座っていた。だが戸を開ける音に反応したのか、一瞬だけ顔を上げて腕と布の間から赤い瞳をのぞかせ、すぐにまた顔を伏せたのであった。
ガランは籠を下ろして桶を台所に置くと、囲炉裏のある部屋に戻ってきて板の間に上がり、採ってきた野草を籠から取り出した。それを葉の形や色で種類ごとに分けて、囲炉裏の前に並べていく。セリやナズナが採れたので、持ってきていた米や干芋と一緒に粥にでもしようか。そう思った矢先、横から白い指がすっと前に伸ばされた。
「これ、毒だ」
いつの間にか起きてきていた娘が、ガランの横にしゃがんでいた。娘が指さしていたのは、一番左端に置かれた一本の野草であった。
「ほかのと似ているが、これは違う」
よく見てみろ、葉の形が少し違うだろう。そう娘に言われたものをガランがつまんでよく見てみると、確かに少し葉の形が違う。
ガランは横にしゃがんだ娘の顔をちらりと見てから、娘が指さしたのとは反対の端に並べられたものを指さした。では、これは。そうガランが問えば、娘は少し間を置いてからその野草の名を呟いた。娘の返答を聞くと、ガランはその隣の野草を指さし、娘もその草の名を答える。
それをいくつか繰り返して、娘がすべて答え終えると、ガランは毒だと言われた野草を囲炉裏に投げ入れた。投げ込まれた草は、すぐに火がついて緑色から赤、そして黒へと変わっていった。
「お前、詳しいんだな」
ガランが灰掻きで灰をつついて言うと、娘はじろりと彼をにらむ。
「まず礼を言うものじゃないのか、こういうときは」
そのまま食べていたら腹を壊すところだったのを止めてやったというのに、「お前」呼ばわりとは失礼なやつだ。そう娘は愚痴を零した。
草が灰になって形がわからなくなるのを見届けると、彼女は立ち上がってまた部屋の隅へと足を向けた。しかしすぐに体勢を崩し、その場で尻もちをついてしまった。
ガランが彼女の着物の裾を引っ張ったからだ。腰をさすりながら振り向いた娘の額には太い縦皺が寄っていたが、ガランはそれを特に気にとめず、すっと頭を下げたのだった。
「ありがとう」
頭を下げてもなんの反応も示さない娘に、会釈をしてしばらく間を置いてから、ガランは礼を述べた。
「……そんな水が溜まりきらない鹿威しみたいな会釈、初めて見た」
口元をむっとさせながらも、眉のしわが消えるほどに目を丸くした娘の様子に、ガランは理解した。どうやら、彼の会釈があまりにも下手で、謝意を示していることがいまいち相手に伝わっていなかったらしい。しかしとりあえずはまあ、彼女に謝意が伝わったようなのでよしとすることにしたガランであった。
「感謝はする。だが、名は知らないのでお前と呼ぶよりほかない」
それだけを告げて、ガランは囲炉裏のほうに向き直って再び灰を整えはじめる。しかし急にぐい、と裾を引っ張られて、灰の上には子どもの落書きのような蛇行した線が引かれた。
この場でガランの裾を引っ張る人物など一人しかいない。何事かと犯人のほうを見やれば、娘の眉間にはまたしても縦皺ができていた。
「アケだ」
上目づかいににらむ彼女の、少しとがった口先から、聞き慣れない音が飛びだして。その音に、ガランは目をしばたかせた。
アケ。その音は、いったい何を意味するのか。彼は、彼女の発した言葉を繰り返す。アケ。ぱちぱちと爆ぜる炎の音に混じって、青年の低すぎない声が部屋に何度も響いた。
「名前だよ、私の」
娘は立ち上がって、ガランに背を向けた。そして頭に巻いた布の向こうで鼻を鳴らすと、部屋の隅へと戻っていったのだった。
アケ。明け。朱。それは、彼女の燃える瞳に似つかわしい音を持つ名であった。
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