第二節 朱色、月空、囲炉裏の火①

 灰色の雲の間から、一筋の光が山肌に射す。天から降りた梯子のようなそれは木々の枝々をすり抜けて、雪の間から頭をのぞかせるクマザサの葉を照らした。細長いその葉の上に積もった雪は、陽光に葉の上から溶け落ちて、ガサガサと音を立てる。

 その音に気配を隠しながら、クマザサの間からその葉と同じく長細い耳が姿を現す。白く柔らかく、頂点には少し黒い毛が生えた耳は、冬毛の野ウサギのものだ。

 ウサギは耳を立ててしばらく周囲を警戒し、それが終わるとふんふんと雪の上の匂いを嗅いだ。残念ながらまだ若芽がでる季節は遠く、落ちている葉や枝を見つけてはそれを食む。

 雲が動いて、天の梯子が光射す場所を変えていく。そろそろと地を這うそれが、一心不乱に小枝を食んでいるウサギに重なったとき。パン、と、一発。風上で乾いた音がした。同時に、ウサギは小枝を食むのを止め、雪の上に倒れこんだ。

 しばらくすると、クマザサが激しく音を立てて揺れる。それを掻き分けて現れたのは、紺の筒袖の上衣に雪袴、その上に簔を着込んだ、痩せ気味の青年。すなわち、ガランだった。

 山の家での「人喰い鬼」の娘との邂逅より一週間。彼は娘に喰われることはなく、しかして山を下ることもなく、あの家に留まっていた。


 ◇ ◇ ◇


 吹きすさぶ雪を背に、娘は仁王立ちをする。そんな彼女を見上げる青年の瞳に映る彼女の姿がどのようなものであるか、娘は当然知っている。

 吹きすさぶ吹雪と同じ白い髪、白い肌。燃え盛る炎に似た赤い瞳。その尋常ならざる姿は正しく「人喰い鬼」と呼ばれるにふさわしいに違いない。

 普通なら、彼女の正体を知った時点で、人は一目散に暗い山道を下って逃げていくだろう。少しぐらいはそんなことを期待していたのだが。

「よかった」

 あろうことにも。それが、人喰い鬼と呼ばれる彼女の姿を見た彼の、第一声であった。

「ちゃんと見つかるかどうか、少し不安だったんだ。山に入った最初の日に出会えてよかった」

 そう言って、ガランは息をはく。その一息はどう見ても落胆のため息ではなく、安堵から来るものだ。そんなことぐらいは、娘から見ても明らかで。ゆえに彼女は一歩足を引いた。

「お前、気味の悪いやつだな」

 娘は少し体をのけぞらせ、その頬が引きつるのを感じた。

 娘は、いくら相手が死にたがりといえど、実際に彼女の正体を知れば少しぐらいは怖がるなり、この大正の時代に人喰い鬼など冗談だろうと笑うなりするはずだと思っていたのだ。

 しかし、目の前の青年はそのどちらでもなく、驚きすらしない。それどころかじっとこちらを見つめて動かない彼に、娘は生唾を飲み込んだ。

 だが、彼女はガランをここに留まらせるわけにはいかなかった。ゆえに、さきほど引いてしまった足を前に戻す。

「第一、誰かの血となり肉となり、というのなら、その辺で熊にでも喰われていればいいだろう! なにも人喰い鬼である必要はない⋯⋯」

 娘はそう声を荒げて、一瞬ののち、噛み締めた奥歯がぎちりと鳴るのを感じた。握った手のひらに爪が食い込んで痛いのに、握りしめることをやめられない。

「いいや、違う。それは違う」

 それまでとは打って変わって必死な様子で、娘の言葉に青年は激しく首を横に振る。

「言葉も通じない獣に喰われることと、今こうして意思疎通ができているお前に喰われることは、まったく違う」

 そう眉尻を下げる彼は、そんなこともわからないのか、とでも言いたげであった。

「第一、今は熊も冬眠しているだろう」

 青年は頑としてその場を動かないつもりらしい。それでも娘は激しく頭を振って、ガランを拒絶する。

「とにかく、出ていってくれ」

「なぜ」

 ガランは眉を八の字にする。

「目の前にさあどうぞ喰ってくださいと言っているやつがいるのに、なぜ追い出す。野犬もカラスも、目の前に肉が落ちていたら我先にと食らいつくもので、獲物をみすみす逃すなんてことはしない」

 その地を這うような低い声色には、娘の言っていることが理解できないという心の音が滲んでいる。しかし娘からすればそれこそ、ガランがそこまで「人喰い鬼」に喰われることに執着する姿のほうが、理解しがたいものであった。

「私は――今腹が減っていないんだ」

 娘は、ふい、と青年から顔を背ける。

「少し前にお前よりも大柄で、体格がよくて、脂ののった男を喰ったばかりだ。だから今は腹が減っていない」

 吹雪でかき消されそうなほど小さい声で、娘は呟く。

「それにお前は痩せているし、硬そうだし、いい匂いもしない。正直、お前なんか食べる気にもならない」

 「だから見逃してやるから、早く出ていってくれ」そう言って、娘はさきほど風で飛ばされた布を拾い上げた。そしてそれを頭に巻くと、尋常ならざる白い髪を覆って隠す。

 娘の言い分を聞き終えたガランは、しばらくの間、顎に手を当てて考え込んでいた。そして考えがまとまったのか、軽く自身の膝を叩くと、こんなふうに口を開くのだった。

「お前が俺を食べる気にならないというのなら、お前が俺を食べるに値すると思うまで、俺はここに留まろう。お前は食料として俺がいることで、とりあえずの食い扶持の心配はしなくて済む。それでいいだろう」

 そう満足げに言うガランに対し、娘は大きなため息をついた。何もよくない、この男は何も話を聞いていなかったのか、と。

 娘はガランの言葉には何も返事をせず、そのまましばらく開け放たれた戸の前で突っ立っていた。ガランはその姿を見上げるばかりで、やはり微動だにしない。

 これではただ、部屋の中の温度を下げるだけだ。そう気がつくと、彼女は再びため息をつき、黙って戸を閉めた。そしてガランの前を通り過ぎると、囲炉裏から一番遠い部屋の隅に腰を下ろし、膝を抱えて座り込んだ。

 その様子を見て、追い出される心配はなくなったと思ったのだろう。囲炉裏の向こうの人物が横たわる気配を、瞳を閉じた暗闇の中で感じながら、娘は眠りについたのだった。

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