第34話 Happy Birthday

 9月25日の夜、職員室には美穂以外に人はいなかった。荷物が置いてある机もあるので、それぞれの教科の準備室にいるのだろう。

 机の上に広げたプリントを束ねながら、美穂はひと息ついた。時計の針は8時を回っている。

 ペンを置いて、伸びをしようとしたとき、静かな空間にドアの開く音が響いた。

 慌てて体勢を戻すと、陽菜乃が職員室に入ってくる。

「あ、日比谷先生。まだ残っていたんですね」

 その声は、なぜか少し震えていて、普段とは違う様子だった。

「ええ、ちょっとだけ。久慈先生は、もう帰るところですか?」

「はい。でも…」

 陽菜乃は言いよどんで、こちらを見つめた。やけに緊張しているような表情に、美穂は小さく首を傾げる。

 次の瞬間、陽菜乃は先ほどから左手に持っていた小さな紙袋を差し出してきた。

「これ…日比谷先生に」

「え?」

 思わず受け取ったものの、どういうことかすぐには理解できなかった。紺色のリボンがかけられた袋。包装の上からでも、中に箱が入っているのがわかる。

 美穂は瞬きを繰り返す。

「どうしたの?これ…」

 美穂の疑問に、陽菜乃は気まずそうな顔をする。

「えっと、今日、誕生日ですよね…9月25日」

 その言葉でようやく思い出す。今日は9月25日。

 自分自身がすっかり忘れていたことに、思わず笑いがこみ上げた。

「本当だ。今日だったのね…すっかり忘れてました」

 陽菜乃が不安そうに「え、もしかして間違えてましたか?」と尋ねるので、慌てて首を振る。

「違うの、間違ってない。私が忘れていただけ」

 笑いながら答えると、陽菜乃は安心した様子でほっと息をついた。

「もうこの歳になると、誕生日ってそんなに嬉しくないんだけどね」

 照れ隠しのように口にしてから、美穂は袋を開けた。

 中から出てきたのは、丁寧にラッピングされた箱。リボンを解き、紙を外すと、上品なスカーフが現れた。

 淡いクリーム色の生地に、落ち着いたブルーの模様があしらわれている。光を受けるたびにやわらかな艶が浮かぶ。

「…きれい」

 触れると滑らかで、軽やかな布が指の間をすり抜ける。

 横で陽菜乃が少しだけ緊張した面持ちで言った。

「何がいいかなって考えたときに、入学式の日に日比谷先生がスカーフをつけていたのを思い出して。それで」

「そんなこと、覚えてたの?」

 驚きと同時に、胸の奥がじんと温まる。

「綺麗だなって思ったんです。そのときの日比谷先生が」

 陽菜乃は少し視線を逸らしながらも、真剣な表情でそう語る。

 ただの春の1日。新しい年度が始まる、忙しい日の一幕に過ぎないはずなのに。

「ありがとう。すごく嬉しい…」

 素直にそう言えた。嘘でも気遣いでもなく、本当に心からそう思った。誕生日を覚えてくれる人が、そばにいてくれるという事実が嬉しかった。


 ふと、自分の鞄に目をやる。

「この鞄につけたら、可愛くなりそうじゃない?」

 そう呟いて、スカーフを持ち手に結んでみる。

 ブルーの模様がアイボリーの革に映えて、一気に華やかになった。

「どう?」

 陽菜乃に見せると、ぱっと明るい顔をした。

「すごく似合います!」

 その言葉に、美穂は思わず笑みを返す。隣で一緒になって喜んでくれる姿が、なぜかたまらなく愛おしく思えた。

「こうして鞄につけていれば、いつでも久慈先生の優しい気持ちを感じられるから」

 美穂は鞄の持ち手に結ばれたスカーフを指先でなぞりながら、そう呟いた。

 誕生日を祝ってもらうことが、こんなにも嬉しいなんて。今まで忘れていた感覚を、陽菜乃が思い出させてくれた。

「本当に、ありがとう」

 スカーフを結んだ鞄をそっと膝の上に置きながら、美穂はもう一度笑った。

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