第29話 お誘いは私から

 買い物袋を片手にマンションの部屋へ戻る。玄関の扉を開けて、電気をつけると、いつもと変わらない静けさが広がった。

 美穂は靴を脱ぎ、リビングへ入る。

 1日閉め切っていた部屋は、蒸し暑い。無意識のうちにエアコンのリモコンに手を伸ばし、冷房をつけていた。

 キッチンへ移動して、冷蔵庫に買ったものをしまう。立ちあがろうとするとき、ふと、ため息がこぼれた。

—仕事に行って、買い物をして、家に帰る。

 この繰り返しが、これから先もずっと続くのだろうか。

 

 ソファに腰を下ろすと、不意にしおりのことを思い出す。最近は子どもの話や家族のことをよく話してくれるようになった。楽しそうに話すしおりの姿が思い浮かぶ。

 やっぱり、守るべき人がいるっていいな。少しだけ、そんな日常が羨ましく思えた。

 学校では、美穂のことを頼りにしてくれる仲間や生徒もたくさんいるし、声をかけてくれる人も多い。

 けれど、それは全て「先生」としての自分に向けられたもの。

 本当の自分のままで、一緒にいられる存在—そんな相手は、今の美穂にはほとんどいなかった。

 

 気づけば陽菜乃の笑顔が浮かんでいた。

 この前、お土産をくれたときのこと。些細な会話で笑い合ったこと。

 愛とか恋とかじゃなくて、今の美穂にとって一番ちょうどいい距離感でいられる人。

—今、話したいのは久慈先生かもしれない。

 迷惑かもしれない。そう思いながらも、スマホを手に取り、指先で文字を打った。

“一緒にご飯行きませんか?”

 送信ボタンを押した瞬間、心臓が早鐘を打つ。

 しばらくして、スマホが震えた。

“ぜひご一緒したいです。いつにしますか?”

 その文字を見た瞬間、胸の奥の重さがふっと軽くなる。

 自分はひとりじゃない。そう思えただけで、美穂は救われたような気がした。

 ホッとしたせいか、体も心も少し軽くなった気がして、ソファから立ち上がる。

 今日はこのまま寝たい気分。でもその前にお風呂に入ってからじゃないと、明日起きたときが大変だから。


 美穂は湯船に浸かると、湯気の向こうでぼんやりと天井を見上げる。

—誰かとご飯なんて、久しぶり。なんか変な感じ。

 自分で考えて行動したことなのに、なぜだか不思議な気持ちになる。普段、自分から誘うようなことはほとんどしないのに。

 冷静になってみると、どこからそんな勇気が湧いてきたのかが不思議だった。


 上がってタオルでざっと体を拭き、パジャマに着替える。

 リビングへ移動すると、温まった肌に冷房の風が当たり、ひんやりとした感覚に包まれた。

 ドライヤーをかけようとしたとき、机の上に置いてあったスマホの通知が目に入る。画面には「久慈先生」の文字が。

 慌ててスマホを手に取り、濡れた髪のままソファに腰を下ろす。

“お食事の場所なんですけど、どこにしましょうか?”

 そう表示されているのを見て、思わず口元が緩む。

 指を動かしながら考える。おしゃれなレストランやカフェでもいい。でも、改まった場所では、話が続かなさそう。

“久慈先生がよければでいいんですけど、ファミレスなんてどうでしょう?”

 美穂はあえて、日常的なファミレスを選んだ。

 送信ボタンを押すと、すぐに既読がつき、返信が返ってきた。

“いいですね!実は、改まった感じのレストランは苦手だったので(>人<;)”

 顔文字とともに送られてきた文章を見て、美穂は安堵の息をついた。

 髪はまだ濡れたまま。けれどドライヤーを取る気にもなれず、スマホを握ったまま小さく笑った。

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