第28話 抱える気持ち

 実家に帰ってから2日目の夜。両親と姉夫婦も揃い、久しぶりに家族全員で食卓を囲んだ。

 机の上には母の手料理がずらりと並ぶ。味噌汁や野菜の炒め物など、懐かしい匂いに陽菜乃の心もほぐれていった。

「あらあら、瑛茉ちゃんはおばあちゃんの隣がいいの〜?」

 準備を終えて席に着こうとする母の袖を、姪の瑛茉が小さな手で引っ張った。

 母がおばあちゃんの顔になるその瞬間、陽菜乃はふと、自分の知らない母を見ているような複雑な気持ちになる。

 そんな光景を横目に、陽菜乃も席に着き、みんなで手を合わせる。

「いただきます」

 大人数で囲む食卓は温かく、子供の頃の風景を思い出させた。


 夕食中、昔話や近所の人の話で盛り上がっていた。母はおしゃべりな人なので、いつまでたっても話題は尽きなかった。

 やがて、眠そうに目をこすった瑛茉を義兄が抱えて席を立つ。食卓には両親と姉と陽菜乃の4人だけが残った。

「この4人だけでご飯を食べるのも、なんだか久しぶりだね」

 母が笑いながらそう呟く。

「そうだね。私は近くに住んでるからよく来るけど…陽菜乃はなかなか会えないからね」

 自然と向けられる視線に、陽菜乃は返す言葉を探せずにいた。

 そのとき、母がさらりと口にする。

「陽菜乃も、そろそろ結婚とかどうなの?」

 聞き慣れたその言葉に、胸の奥が少し冷たくなる。

 母も別に、嫌がらせで言っているわけではない。ただ単純に、陽菜乃の将来を心配しているのだろう。

「そういえばね」

 母は陽菜乃の答えを待つのでもなく、思い出したように次の話題に移っていった。

「陽菜乃が高校の時の音楽の先生、いたでしょ。小野上先生。あの人、結婚したらしいよ」

 先ほどまで聞き流していた母の話に耳を傾ける。陽菜乃が昨日から考えていた麻衣の話題がタイミングよく出てきて、思わず手を止める。

「確か、陽菜乃が帰ってこない間だったかしら。赤ちゃんも産まれて、盛岡の方に引っ越したらしいわね」

 陽菜乃も知らない麻衣の話が、母の口から次々と飛び出す。

 なんだか麻衣は陽菜乃とは遠い世界の人になってしまったような気がした。

「そうなんだ」

 陽菜乃の口からはそれ以上の言葉は紡がれなかった。これ以上食事が喉を通る気もせず、自室へ戻った。


 部屋に戻ると、陽菜乃はスーツケースに荷物を詰める。仕事の都合や休みの間にやっておきたいこともあるため、翌日の夕方の列車で自宅のある埼玉へ戻らなければならない。

 持ってきた服や、もらったものをスーツケースにパズルのように詰める。他に何か入れるものはないか辺りを見回すと、本棚のアルバムが目に入った。

—アルバム、持って帰ろうかな。

 今の陽菜乃の原点になった高校時代。やっぱり懐かしくなって、いつまでも手元に置いておきたい気持ちになる。

 陽菜乃が本棚からアルバムを取り出すと、隣のアルバムとの間からポロッと何かが落ちたのが見えた。

 陽菜乃は少し面倒に思いながらも、落ちたものを拾い上げる。

—手紙?

 可愛らしい封筒を裏返すと“小野上麻衣”と書かれていた。

 開封済みのその手紙には、どんなことが書いてあったのか、今の陽菜乃には思い出せない。

 少し緊張しながら開けてみると、卒業式の日に撮った麻衣と陽菜乃のツーショットが入っていた。そしてもう1枚、麻衣の字で書かれた手紙が。

 読み進めていくと、陽菜乃の高校卒業を祝う文章や、受験までの頑張りを褒める言葉が並んでいた。

 手紙の終わりに書かれていた文に、陽菜乃の目は奪われた。

“久慈さんのお家に伺ったあの日、「小野上先生みたいな先生になりたい」と言ってくれたのがとても嬉しかったです。私なんてまだまだですが、久慈さんなら素敵な先生になれると思います。夢を叶えた時には、報告してくれると嬉しいです!”

 一度読んだことがある手紙のはずなのに、大事なことを忘れていることに気づいた。

 陽菜乃は目元に少しだけ溢れた涙を拭い、リビングへ向かった。


「お母さん、小野上先生の住所って分かる?」

 夕食の片付けをする母に、陽菜乃は尋ねた。

「先生の住所って、どうかしたの?ああ、そういえばそこにハガキが…」

 母はタオルで手を拭いて、棚の中をガサガサと探しだした。

「あっ、あった」

 ようやく見つけたハガキを陽菜乃に差し出す。

「これ、何年か前に陽菜乃宛てに来てたから、あとで渡そうと思っていたんだけどね」

 母から渡されたハガキを見る。ウェディングドレス姿の麻衣が旦那さんと幸せそうな笑顔で微笑んでいる。

 裏返すと、住所も名前も新しいものが記載されていた。

—そっか、もう小野上先生じゃないのか

「ありがとう」

 陽菜乃は母に礼を言うと、再び2階の自室へ戻る。

 手紙とハガキ、卒業アルバムを一緒にして、スーツケースに詰めた。

—帰ったら、手紙を書こう。

 この2日間で、今の陽菜乃の原点となったものを色々思い出せた。

 教師として働きはじめて9年目。素敵な先生になれている自信はないけれど、音楽の先生になるという目標は叶えられた。

 ここまで頑張ってこられたのも、あの頃の思い出があったから。

—小野上先生は、永遠に私の憧れ。


 次の日の夕方、陽菜乃が帰るために姉が車を出してくれるということで、玄関で荷物を積む準備をしていた。

「もうちょっとゆっくりしていけばいいのに…」

 靴を履く陽菜乃に、母が少し残念そうに声をかける。

「また来るから」

 陽菜乃が母に手を振り、車に荷物を積み込んだ。

 助手席のドアを閉めると、いよいよ帰るんだ、と少し身が引き締まる。

 予約した新幹線の時刻を確認して、スマホをポケットに仕舞う。


 姉も陽菜乃も、特に話すこともなく、車内には沈黙が続いた。今日は瑛茉が乗っていないため、車内はやけに静かだった。

 何か話すべきか。陽菜乃がそう考えていると、やがて姉が口を開いた。

「あのさ、陽菜乃は陽菜乃の好きなようにしていいんだからね」

 どういう意味かよく分からず、陽菜乃は首を傾げる。

「陽菜乃が音大行きたいって言い出したとき、びっくりしたもん。あの陽菜乃が?って」

「それ、どういう意味?」

 ニヤッと口角を上げて陽菜乃を見る姉に、呆れ気味に返す。

「私なんか、なんとなく地元に就職して、結婚してさ。これでよかったのかなぁ、なんて」

「後悔してるってこと?」

 目の前の信号が赤になり、車の速度が落ちる。

 車が完全に止まった後、数秒考え込むようにしてようやく吐き出す。

「別に後悔はしてないけど、少し羨ましかったかも。やりたいことを見つけられた陽菜乃が」

 運転席に座る姉の横顔は、笑顔なのにどこか寂しそうな顔をしていた。

「だめだね、こんな話。可愛い妹にする話じゃないね」

 信号が青になると、車は再び動き出す。

「私はこの場所で、やるべきことを頑張るからさ」

 その声は覚悟が決まっていて、陽菜乃よりもずっと先を歩んでいるような感じがした。

「今の環境を無駄にしないようにね」

 姉の言葉にはどこか重みがあった。


 やがて窓から駅舎が見えてくる。

「ほら、ついたぞー」と姉は車を止めて外に出た。スーツケースを後ろから取り出し、陽菜乃に受け渡す。

「せっかく都会に出たんだから、したいことは全部やってきなさいよー」

 そう言って、わしゃわしゃと陽菜乃の頭を手で触る姉の顔はよく見えなかった。

「お姉ちゃんも、身体に気をつけて。また電話するから」

 陽菜乃は手を振りながら、改札へと向かった。


 1時間に1本の貴重な列車が、ライトを光らせてホームにやって来る。

 陽菜乃は重いスーツケースを持ち上げ、列車に乗った。席に着き、窓の外を見ると、夕日が眩しく輝いていた。

 ここに来ると、いつもは忘れていたことも思い出してしまう。そして、しばらく当たり前だと思ってしまっていたことも、実は当たり前ではないことに気付かされる。

 これからどうするのが正解なのか。陽菜乃は帰省してから、胸のどこかで複雑な気持ちを抱えていた。

—ピコン

 その胸の雑音を邪魔するかのように、一件の着信音が響いた。

 ズボンのポケットからスマホを取り出す。見慣れた名前が画面に表示された瞬間、息をのんだ。

—日比谷先生…え、ウソ!?

 スマホの画面を見た陽菜乃は、心の霧が取り払われ、暖かくて幸せな気持ちに染め上げられていた。

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