第27話 初恋
そう、あれは陽菜乃が高校2年生のときのこと。
文化祭のクラス発表で創作劇を行うことになった。タイトルは“暗闇の歌姫”。閉ざされた村で暮らす歌声の美しい姫が、外の世界を知る物語だった。
けれど、いざ役を決めるとなると、歌姫を演じたいという人物は誰もいない。そんな中、陽菜乃はクラスの数人から推薦され、歌姫を演じることになったのだった。
陽菜乃は、小学生の頃から中学生まで地域の合唱団に所属していた。高校も地元の高校に進学したため、陽菜乃が歌えることをよく知っている人物も多くいた。
歌うことは嫌いではない。でも、合唱でみんなと歌うのと、役になりきって歌うのとでは全く違う。
不安を抱えた陽菜乃は、音楽教師である小野上麻衣に相談することにした。
「それは面白そうな劇だね」
放課後の音楽室。陽菜乃が劇の内容を話すと、麻衣はそう言って笑った。
台本をペラペラとめくり、少し考えると、麻衣は再び口を開く。
「いいよ。演技のことはあんまり詳しくないけど、歌のことなら私が面倒見るよ」
その次の日から毎日、放課後は音楽室へ向かった。
お手本で歌ってくれる麻衣の声は透き通っていて、美しい。
陽菜乃にはとても真似できるものではない、とそのとき思った。聞き惚れて言葉を忘れると、麻衣は優しく言った。
「久慈さんは久慈さんの声で演じればいいの」
そうやって時々励ましてくれる麻衣に背中を押されて、陽菜乃は頑張ってみようと思えた。
それに、麻衣は演技のことは詳しくないと言いながらも、セリフ部分や動きの指導もしてくれた。
「ここはもっと、こんな感じで手を伸ばして。そうそう—」
動きを指示する最中に、麻衣の手が陽菜乃の手に触れる。陽菜乃はその感覚にドキドキしたような気がした。
その感情を、恋なのか憧れなのか、自分でもうまく言葉にできなかった。
そうして迎えた文化祭本番。緊張しながらも舞台を終えると、教室に見に来ていた麻衣が笑って言った。
「頑張ったね。すごく綺麗だった!」
その日はたくさんの人に褒められたが、麻衣の一言は他の誰に褒められるよりも嬉しかった。
季節が変わり冬になる頃、陽菜乃の中にひとつの夢が生まれた。
—小野上先生みたいな音楽の先生になりたい。
これまで漠然としていた将来が、初めて具体的に形を持った。
職員室でその思いを打ち明けると、麻衣は腕を組んで難しい顔をした。
「なるほどね。今からだと結構大変だよ?」
しかし陽菜乃の真剣な顔を見て、麻衣は付け加える。
「まあ本気なら、ちゃんと面倒見るけど?」
そう言って麻衣は職員室の奥からいくつかのパンフレットを持ってきた。
「まずは、大学探しから始めようか」
どうせなら、地元を離れて東京の音大にでも行きたいな、と色々な大学のパンフレットを見ながら陽菜乃は考える。
「この大学、いいですね…」
陽菜乃が一冊のパンフレットを手にとって麻衣に見せると、麻衣は目を細めて笑う。
「それ、私が出た大学」
陽菜乃はその言葉に胸が跳ねた。それと同時に、どうしてもこの大学に行きたい、と強く思った。
それからは受験のために、放課後も休日も練習漬けになっていった。
だがひとつ、陽菜乃には大きな問題があった。
「実は、まだ親に言えてなくて。音大受験のこと」
勇気を出して打ち明けると、麻衣は厳しい声を返す。
「そんな大事なこと、なんでもっと早く言わなかったの。言わなきゃだめだよ。しかも一人暮らしするつもりなんでしょ?」
麻衣の言葉に、胸が締め付けられる。
親に言わなくてはいけないことは陽菜乃もよくわかっていた。でも、反対されるのが怖くて言えなかった。
「行くよ」
そんな陽菜乃に、麻衣は静かに言った。
予想外の言葉に、陽菜乃は泣きそうになりながらで麻衣を見上げる。
「分かってくれなかったら、私が一緒に説得するから」
麻衣のその言葉が支えになり、陽菜乃も立ち上がって一歩進んだ。
「まあまあ、高校の先生までご一緒で。今日はどうしたの?」
夕食前の居間。夕食の準備で忙しい母も、仕事から帰ったばかりの父も手を止めて座っていた。
麻衣の隣に座った陽菜乃は、なかなか切り出せずに俯いていた。
「…実は、進路のことで話したいことがあって」
ようやくそう言うと、思い切って陽菜乃は口を開いた。
「私、東京の音大を受験したい…!」
母は目を丸くして驚く。
「…音大?そんなの、卒業してどうするのよ。それに東京で一人暮らしだなんて…」
陽菜乃は言葉を詰まらせる。こうなることは分かっていた。どうせ親に反対されて、諦めて終わり。そう思って俯いていると、麻衣がそっと背中を押した。
「言いたいことは、ちゃんと最後まで伝えるの」
陽菜乃はその言葉を聞いて、深呼吸をして顔を上げる。
「私、どうしても音楽を学びたい。小野上先生みたいな音楽の先生になりたいの...!お願いします」
陽菜乃がそう言い切ると、両親は黙って見つめ合う。麻衣は少し驚いた顔で陽菜乃を見ていた。
やがて父がため息をつく。
「まあ、なんとなくではないことは分かった。将来なりたい自分も見えている。そこまで言うなら」
そこで父はひと呼吸おき口を開く。
「ただし、自分で言ったことには責任を持て」
母は少々不満そうだったが、最終的には了承してくれた。
そこからは必死に勉強した。放課後の練習に加えて、中学生のときまで通っていたピアノ教室にも通い直した。
スタートが遅かった分、遅れを取り戻すために必死に食らいついた。
そんな苦しいときも、麻衣がいつもそばにいてくれた。それが何よりの支えだった。
やがて春がやってくる。
「受かったの!?久慈さん、おめでとう!」
陽菜乃が合格を報告した瞬間、麻衣は陽菜乃を抱きしめて自分のことのように喜んでくれた。
その鼓動と体温の近さに、身体中が熱くなる。
これが恋なのだと気づくには、少し時間がかかった。
思えば、あの頃の自分はただ麻衣に近づきたかった。同じ時間を共有して、麻衣が卒業した大学を目指して。陽菜乃の頭の中に浮かんでいたのは、常に麻衣の姿だった。
でも、芽生えた気持ちを伝えるつもりはなかった。
—小野上先生が好き。
胸の奥で、そっと抱きしめていた。
叶わぬ恋を。
それが陽菜乃の初恋だった。
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