第25話 あなたのために

 家に帰ると、今日1日の疲れがどっと出てくる。

 美穂は着替えることも億劫になり、そのままベッドに倒れ込む。

 生物室でしおりに迫られたとき、怖さもあったが、少し嬉しい気持ちもあった。

 まだ自分のことを覚えていてくれていて、必要としてくれているのかもしれない。少しでもそう思ってしまった。

 美穂は唇に手の甲を当てる。

—でも、しおりには家族がいるから。

 

 瞼を閉じると、あの日の放課後がよみがえる。

「美穂のこと、好きなんだよね」

 テスト前の放課後、ふたりきりで勉強しているときのことだった。

 しおりの突然の告白に驚いた。恋愛って男女でするものだと思っていたから。当時の美穂には、「恋ってこういうもの?」という感覚で、恋愛ごっこみたいな気分だった。

 好きって言ってくれる人がいて、なんとなく嬉しかった。そんな気持ちもあって、美穂はしおりのことを受け入れていた。

 しおりはいつも一生懸命で、美穂のことを誰よりも考えてくれる。

 しおりと繋いだ手は暖かくて、一緒にいるといつの間にか心地よさを覚えていた。


 しおりと別の大学に進学して2年、あれはいつも通り、ふたりで遊びに行った日の帰りだった。

「ごめん。彼氏ができた」

 美穂は別れを切り出すしおりを、そういうものか、と受け入れた。特に深く取り乱したりもせずに。

 だってそれは自然なことで、やっとしおりも普通の恋愛ができると思ったから。


 しおりという人物に縛られなくなったあとは、美穂も普通の人生を生きようとして、男女の付き合いも経験した。

 しおりみたいに、結婚して家庭を持つこと。しおりだけではなく、みんなそうしている。だから自分にもできると思っていた。

 けれど、どんな経験をしても結婚や子育てなど、普通の道を進めるとは美穂には考えられなかった。

 

 結局、ここ10年はひとりで過ごしている。

 恋愛関係になりたいと言われることは多くあったが、美穂はそれを選ばなかった。どうしても、うまくいく気がしない。


 今日、しおりを近くで見たときにふと思った。

—もし、大学生のときに、しおりを引き止めて付き合い続けられてたら、どうなっていたのかな…

 そこまで考えた美穂は、はっとした。

 それは当時の自分には絶対できなかった選択。

 普通の道は歩めないと分かった今だからこそできる選択。

 だってあの頃は、しおりの選んだ道は正しくて、いちばん幸せになれる道だと思っていたから。

—選んだ道は、戻れないし、曲がれないもの…

 

 翌日、美穂はお昼ご飯も食べずに生物室へ急ぐ。

 扉に手をかけ勢いよく開けると、古びた扉がキィ、と不快な音を立てた。

 室内を見ると、目を見開いたしおりと目が合う。

「ど、どうしたの、美穂…」

 途切れそうになりながらも、しおりは声を紡ぐ。

「ちょっと、話しておきたいことがあるの」

 美穂が続けて話し始めようとしたそのとき、しおりが美穂をまっすぐ見て言う。

「あのさ、昨日はごめんなさい。嫌だったよね…」

 しおりのその言葉は、美穂には否定することも、肯定することもできなかった。

「今の私は、家族もいて、幸せだよ。でも」

 しおりは決して今の生活に満足していないわけではなかった。ちゃんと幸せな道を歩んでいた。

「ときどき考えちゃって。もし、あのとき私が、美穂を選んでいたら…」

—やめて。

 しおりの言葉が美穂の心を抉る。そんなこと考えないで欲しい。

「でも、あなたが選んだのは、今の人生でしょう?」

 これは拒絶ではなく、しおりとしおりの家族を守るための美穂なりの優しさだった。

「その選択を否定したら、あなたの家族はどうなるの?」

 しおりの顔が歪むのが見える。

 言いたかったことは言えた。けど…

—違う、傷つけたいわけじゃない。

「だから」

 美穂はしおりの左手を握る。

「これからは、良いお友達として仲良くしてくれると嬉しい、かな」

 しおりがギュッと手に力を入れたのが伝わる。声には出してくれないけれど、しおりも美穂の気持ちに応えてくれていた。


 胸の中に小さな痛みはあるけれど、これが今の美穂の本心。後悔はしていない。

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