ひなみほ観察記録4

「はあー、もうダメ…」

 放課後の静かな教室に琴子の叫び声が響く。

「ちょっと琴子、うるさい」

 隣の席で勉強していたゆあが琴子の背中を軽く叩いた。

 期末考査前の放課後は、教室に残って勉強している生徒も多く、いつもの放課後とは教室の雰囲気も違っている。

 普段、放課後は教室で雑談をしている3人も、この期間はテスト勉強に励んでいた。

「ねえ、この問題、どうしてこの選択肢なの?茅野ちゃんは分かる?」

「えっと…あ、これは主人公の行動から読み取れるよ。ほら、ここら辺読んでみて。選択肢は消去法で消していけば…」

 紬なりに説明をしてくれているが、国語が苦手な琴子にはさっぱり分からなかった。

「あー!」

 琴子がいきなり立ち上がると、紬とゆあが目を見開いて驚くのが見える。

「もう、わからないから美穂さんに聞きに行く!」

 机の上のテキストとノートと筆記用具をガシャガシャとまとめる。こういうのは先生に聞くのが一番手っ取り早い気がする。

 それに、琴子には別の目的もあった。ひなみほの状況を美穂側から探りたかったのだ。美穂の方はどう思っているのかとか、何か面白い話を聞けないかとか。

 琴子は教室の扉を開き、職員室へ向かった。


「失礼します…」

 職員室へ足を踏み入れると、テスト前ということもあって、先生に質問をしている生徒が多くいる。説明をする先生の声と、生徒の声が入り混じり、いつもより騒がしかった。

 琴子は1年生の先生の座席を確認する。座席表と照らし合わせてみると、美穂は不在のようだった。

「戸沢さん?どうかしたの?」

 声の聞こえる方へ顔を上げると、目の前には陽菜乃がいた。もしかしたら美穂の居場所を知っているかもしれない。

「あの。日比谷先生ってどこにいるかわかりますか?」

 琴子の質問に、少し考えるようにしたが、すぐに答えてくれた。

「あ、国語科準備室にいるかも。先生たちって、各教科の準備室にいることが多いから、探してみたらどうかな」

「ありがとうございます」

 琴子は国語科準備室に行くことにした。

 職員室の外に出ると、廊下は蒸し暑く、ここからさらに階段を登るのは琴子にとって少し苦痛であった。

—ここまでして聞きに行く価値あるのかなぁ…


 三階へ移動し、国語科準備室前に行くと、座席表が書かれたホワイトボードに、マグネットが貼ってある。

 確認してみると、美穂は在室しているみたいだ。

 琴子は扉をノックして、国語科準備室へ入った。

「失礼します」

 少し狭い室内を歩いて、美穂の席まで移動する。

「あら、戸沢さん。どうしたの?」

 琴子に気づいた美穂が振り返ると、長い黒髪が揺れる。相変わらず綺麗な人だなと、琴子は思う。これは陽菜乃が惚れるのもよく分かる。

 ここで琴子は本来の目的を思い出す。

「あの、この問題がよく分からなくて、質問しに来たんですけど…」

 ふと美穂の机に視線を移すと、ひまわりの絵があしらわれた飴が目に入った。

—美穂さんもこういう可愛いの買ったりするのか…

「どうかした?」

 琴子が黙って考えていると、美穂の声で我に帰る。

「…いや、この飴、可愛いなぁって思って。日比谷先生、こういうの好きなんですか?」

 この際色々聞いちゃおう、と思い切って聞いてみる。

「あら、戸沢さんもそう思う?実はね…」

 美穂が柔らかな笑みを浮かべながら、楽しそうに話す。

「これ、久慈先生がお土産でくれたの。久慈先生、結構可愛いわよね」

—はぁぁ?

 あの先生も、やるときはやるんだと少し驚く。

 それと同時に、美穂の反応も陽菜乃を意識しているのではないかと考えてしまう。

 でも、美穂は優しいから、これが通常運転なのかもしれない。これは経過観察。

「…で、どこが分からないんだっけ?」

 頭の中での想像が膨らみすぎる前に、また美穂の声で呼び戻される。

「これです。茅野さんに聞いても、文章読めば分かるって言われて…」

 なるほどね、と言いながら美穂が赤いボールペンを取り出す。

 美穂は琴子のノートに目を落とすと、ボールペンで短く線を引いた。

「ここ、主人公がどう思ったかって部分がすごく大事なの。行動とか会話の裏に気持ちが隠れているからね。選択肢を選ぶときは、その気持ちに一番近いものを選ぶといいかな」

「えっと…じゃあ、このBの選択肢ですか?」

「そうね、戸沢さんの考えも悪くないけど、この場面では少し行きすぎかな。ほら、この“でも”の使い方を見てみて」

「あ、本当だ…!」

 美穂の言葉に従って読み直すと、琴子にも少し筋道が見えてくる。少し理解できて、琴子は素直に感心する。

「まあ、物語の解釈は人それぞれだから、これっていう正解はないと思うから…」

 そう言って微笑む美穂に、琴子は心を掴まれる。なんだか重く乗っかっていたものが軽くなったような気分になる。

「ただ、テストで点を取るためには、一般的な答えに辿り着けないとだめなんだけどね」

 安堵したのも束の間、続く美穂の言葉に棘を刺されたような感覚に陥る。

「…で、ですよねぇ」


「ありがとうございました」

「戸沢さん、また分からないことがあったらすぐ来てね」

 美穂は柔らかな声でそう告げる。

 琴子は「はい!」と返事をしてから準備室を後にした。


 廊下を歩きながら、琴子は心の中で思う。

—やっぱり、美穂さんは教え方も上手いし、いい先生だなぁ。

 でも、あの調子で誰にでも優しさを振り撒いていたとしたら…

 もしそうだとしたら、美穂が陽菜乃に見せる優しさも、ただの親切心からくるものなのかもしれない。

 琴子は頭をぶんぶんと横に振った。

—ダメダメ。これは私が考えて何か変わるものじゃないし。

 でも、いくら言い聞かせても、美穂と陽菜乃のことが頭から離れず、心の中に小さな渦のようなものが残っていた。

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