第11話 乗っちゃった…!

「お、来た」

 職員玄関に近づくと、美穂は軽く手を振る。

 その声に陽菜乃の胸はますます早鐘を打つ。

—このまま、このまま…

 陽菜乃は鞄の持ち手をギュッと持ち直す。自然に呼吸が浅くなり、手のひらも少し汗ばんでいた。


 職員玄関のドアを開けると、湿った空気と雨の匂いがする。浅い水たまりに靴が触れ、ズボンの裾が少し濡れたが、今はそんなことはどうでもよかった。

 少し移動すると、美穂の車が見えた。深緑色の軽自動車。車のボディに落ちる雨粒がキラキラと光っている。

「今、開けますね」

 美穂が運転席のドアノブに触れると、車の鍵は解除された。

 陽菜乃の手が助手席のドアノブに触れる。

—扉を開けたらふたりきりになっちゃう…

「乗っていいわよ?」

 陽菜乃がドアにかけた手をそのままにしていると、美穂が微笑みながら言った。

 陽菜乃はその声を聞き、慌ててドアを開けた。


「…濡れちゃった?」

 車に乗り込み、ドアを閉めると、美穂の声がした。思わず運転席の方を見ると、美穂は陽菜乃に向かってハンカチを差し出していた。

—ち、近い…

「い、いえ。大丈夫です」

 手が触れそうになり、陽菜乃は咄嗟に断ってしまった。

 車の中という閉鎖的な空間で、温かい空気と美穂の香りが漂ってくる。車内は掃除が行き届いていて、清潔感があった。

「狭いと思うけど、ちょっと我慢してね」

 美穂が車のエンジンをかける。陽菜乃はシートベルトをかけて、美穂がいつでも車を出せるように準備した。

「じゃ、出発しますね」

 陽菜乃がシートベルトをしたことを確認すると、美穂はハンドルを握った。

 陽菜乃がちらっと横を見ると、視線は自然に美穂の横顔に吸い寄せられる。ハンドルに触れる美穂の手、雨で少し湿った髪…全てが胸に刺さるようだった。

 

 美穂は運転しながら、陽菜乃に話しかける。

「久慈先生は、学校には慣れましたか?」

「はい、えっと、なんとか。」

「授業はどう?」

「みんな真剣に受けてくれて、結構楽しいです」

 助手席に座る陽菜乃は、返事をしながらも内心動揺していた。どうしよう、何か言わなきゃ。

「日比谷先生は、」

 緊張で言葉が詰まる。

「どんな風に、授業を工夫しているんですか?」

 言いたいことが直前で行き止まり、結局なんでもない話をしてしまう。本当は別のことが知りたかったのに。

「そうね…私は国語だから、言葉の面白さを伝えられたらいいかな。あとは、教室の雰囲気が和むように」

 美穂が穏やかに答え、少し微笑む。その顔に陽菜乃はドキッとする。

—あんまり見ないようにしてるのに…結局、気づけば見ている。

 

 助手席に座ってからの5分ほどの時間は、陽菜乃にとって長く、それでいてあっという間に感じた。

 車が学校の最寄り駅の前に停まると、陽菜乃は深呼吸をして声を出す。

「日比谷先生、ありがとうございました」

「気をつけて帰ってね」

 

 車から降りると、美穂の車が見えなくなるまで見送った。

『気をつけて帰ってね』

 その短く、何気なく陽菜乃を気遣う言葉が胸に強く残る。

—そういうの、ダメだってば…

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