第8話 今のはなかったことにして!

「お疲れ様です!」

 数日後の夜、陽菜乃は凛と、そして同じく今年度から堤ヶ丘女子高校に赴任した1年4組副担任の橋本はしもと円香まどかとの3人でイタリアンレストランに食事に行った。

「お誘いありがとうございます!今年異動してきて心細かったので、こうして一緒にお話できて嬉しいです」

 円香は、陽菜乃たちより少し年下で、どこか小動物のような可愛さがある。


「乾杯!」

 グラスを軽く鳴らす音が、静かな店内に響く。

 目の前に座る円香がワインを口に含んだ瞬間、ぱっと花が咲いたように笑顔を浮かべて「おいしい!」と声をあげた。周りの視線なんてまるで気にしていない。可愛いと思う反面、その素直さに胸の奥を突かれる。


「新しい環境って大変ですよね…特に1年生だと、生徒たちも初めてのことばかりだから、慣れないことも多いですし」

 円香が少し不安そうに話すと、凛が頷く。

「こっちも結構大変でさ。前の学校とは教科書とか授業のペースとかが違うからさあ」

「教える方も結構気を遣いますよね」

「わかるよー」

 3人で話が弾む。

 円香はフォークを置き、にっこり笑いながら言う。

「こうやって皆さんと話すと、ほっとしますね。みんな思っていることは同じなんだなって」

 その無邪気な笑顔に、陽菜乃は心の中で小さくため息をつく。素直に物事を言える円香が少し羨ましかった。


 凛が再び話題を振った。

「そういえば、橋本先生は国語科だよね。1年生担当だと、授業の進め方とかは日比谷先生が教えてくれてるの?」

 急に美穂の名前が出てきたので陽菜乃は食事の手を止めて、思わず顔を上げた。

「そうですよ。授業の進め方を教えてもらったり、わからないこととかは色々と質問したりします。あとは、私も日比谷先生の授業のやり方、ちょっと真似してみたり」

—日比谷先生は、やっぱり信頼されてるんだな。

「私、日比谷先生のこと尊敬してるんですよ。優しくて、色々知ってて。私も将来ああいう先生になりたいな」

 3人の声と、ワインの香りに包まれながら、陽菜乃は今日もまた美穂のことを考えずにはいられなかった。


 ワインをもう一杯飲み干し、少し酔いが回ってきた頃、円香がさらりと新情報を出す。

「あ、そういえば、日比谷先生って結婚してないみたいですよ」

 陽菜乃は自分も知らない美穂の情報に思わず耳を傾ける。

「えー、でも日比谷先生って美人だし、仕事もできるし、優しいから絶対彼氏とかいるでしょ!」

 凛が笑いながら返す。

 陽菜乃の胸はざわついた。

—え、いや、そんなこと…

 しかし、酔いのせいもあって、頭で考えるよりも先に思っていたことを口にしてしまった。

「ぜ、絶対そんなことない!私が捕まえるんだからあ!」

 自分でも驚くほどの勢いに、顔が熱くなる。2人を見ると、一生懸命笑いをこらえている。

「え、久慈先生…酔ってるでしょー。おもしろいこと言うじゃないですか」

 円香も少し酔いながら軽く笑う。

「そうそう。陽菜乃サン、今のはどう考えてもネタでしょ?」

 凛もお腹を抱えて笑う。

 陽菜乃はハッとして赤面する。

 あー、言っちゃった…

 しかし、2人には真剣に受け止められず、あっさりと受け流された。

 陽菜乃の心の中には安心したような、でも少し悔しいような、ムズムズした気持ちが残っていた。

 でも、今のは酔った勢いで…

 陽菜乃の頭の片隅では、美穂に対する自分の気持ちが少しだけ現実味を帯びてきたことを感じていた。

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