第32話『名家と準名家』
ルキウス・マルキウス・ピリップスと セクストゥス・ユリウス・カエサルが執政官の年(紀元前91年)十一月初旬、ピケヌム地方アスクルム市内、ティトゥス
「日記?」
「市議会での屈辱、血筋による差別、息子への期待――すべてが克明に記されています。パピリウス殿は毎晩その日記を読み返し、父の無念を再体験し続けているのです」
「そして、この父親の遺志が他の屈辱と重なり合って、彼の心を決定的に歪めていったのです」
ソフィアが新たな書類を広げる。
「まず、日常的に体験する血筋による差別です。市議会での『傍聴者』扱い、商取引での軽視、社交場での無視――父君が味わった屈辱を、息子も毎日体験し続けています」
蝋燭の炎が揺らめく中、半年前の市議会での光景が脳裏に甦る。
あの日、パピリウスは十七名家の決議に異議を唱えようとした。だが、アルケウスは冷たく言い放ったのだ。
「パピリウス殿、準名家に正式な発言権はございません。傍聴席にお戻りください」
会議場に気まずい沈黙が流れた。パピリウスの顔は怒りで真っ赤に染まり、拳を握りしめていた。しかし制度の前では何もできない。彼は屈辱に歯を食いしばりながら、ゆっくりと傍聴席へ戻っていった。
あの時、彼の背中は深い絶望を放っていた。実力があるにも関わらず、血筋だけで排除される理不尽さ。それがどれほど男の心を蝕むものか。
あの瞬間のパピリウスの表情が、今になって新しい意味を持って迫ってくる。単なる政治的野心ではなく、父親の遺志を背負った男の絶望だったのだ。
自分は名門の出身だから、そうした屈辱を味わったことがない。だからこそ、あの時のパピリウスの痛みを理解できていなかった。いや、理解しようともしていなかった。
この制度の恩恵を受けている自分が、制度の被害者を批判する資格があるのだろうか。そんな疑問が胸の奥でくすぶり始める。
ソフィアと視線が交錯し、彼女はそっと頷く。
「この屈辱が、既存の十七名家制度への深い怨嗟を育んだのです」デモステネスが続けた。
「彼にとって、十七名家制度の破壊こそが真の政治的解放を意味しているのでしょう」
「これらの日常的屈辱が、父君の遺志と重なることで、単なる個人的な怒りを政治的使命感へと昇華させたのでしょう」
「さらに決定的だったのは」デモステネスが補足する。
「ローマでの個人的屈辱です。リクトル殿との学習環境の格差、恋愛での敗北――これらが『血筋さえあれば』という父君の嘆きを、息子自身の体験として確信させたのです」
「リクトルと?」
二人の関係についてはあまり詳しく知らないぞ。何があるというのか? そう言えばなぜパピリウスは、リクトルをあれほど憎んでいるのだろう。市議会での発言を見ていると、パピリウスはリクトルの理想論を「綺麗事」として一蹴することが多い。だが、あの反応は単なる政治的対立以上の、個人的な憎悪を感じさせる。
「デモステネス――」ふと疑問が浮かぶ。
「二人はもしやローマで同じ時期に学んでいたのか?」
「はい。しかし、学習環境は大きく異なっていたようです」
「どういう意味だ?」
「リクトル殿は名家出身ということで、著名な修辞学者から個人指導を受けていました。一方、パピリウス殿は……」デモステネスが言葉を濁す。
「出自を理由に、同じ機会を得られなかったのか」
「その通りです。同じ授業料を払っていたにも関わらず、です」
なるほど、それで合点がいく。学問の世界でも、血筋による差別が存在していたのだ。同じ能力を持ちながら、片方は個人指導、片方は大人数の一般講義。この不公平さがパピリウスの心に深い傷を残したのだろう。
「それだけではないな…」
推理の糸がさらに繋がっていく。
「リクトルの理想主義が、パピリウスには『恵まれた者の余裕』に見えるのだ」
そう口にした瞬間、自分自身もまた「恵まれた者」の一人であることに気づく。クリスプス家の跡取りとして生まれ、血筋による特権を当然のように享受してきた。市議会に呼ばれ、商取引では信用があり、社交場では敬意を払われる。
リクトルも同じだ。彼の理想主義は確かに美しい。だが、それは恵まれた立場にいるからこそ語れる綺麗事なのかもしれない。血筋による差別を受けたことがない者が、「実力主義」や「平等」を説くことの矛盾。
パピリウスから見れば、自分たちの議論はどう映っているのだろう。父親の遺志を背負い、日々屈辱を味わいながら生きている男にとって、名門出身者の理想論は空虚な響きを持つのかもしれない。
それでも、パピリウスの選択は間違っている。目的が正しくても、手段が間違っていれば結果は破滅しかもたらさない。だが、その間違いを指摘する資格が自分にあるのかという疑問が、胸の奥でくすぶり続けている。
立場が人を作る、とはこういうことなのか。同じ人間でありながら、生まれた環境によってこうも考え方が変わってしまう。政治の世界の残酷さを、改めて思い知らされる。
「更に……」ソフィアが続けた。
「共に思いを寄せていたローマ貴族の令嬢がいたのですが、リクトル殿は求婚を受け入れられたのに対し、パピリウス殿は『身分が釣り合わない』として一顧だにされなかったのです」
「しかし、リクトル殿も結局家族の反対で結婚には至りませんでした」
「それもパピリウス殿がリクトル殿を責め、リクトル殿はパピリウス殿に引け目を感じている理由かと思います」
今日何度目かわからない深いため息が漏れる。街の中でのやり取りでも、似たような応答を二人はしていたと思う。恋愛の屈辱は、男にとって最も耐え難いものの一つだよな。
リクトルとパピリウス――この二人の関係が、ようやく理解できた。表面的には政治的対立に見えていたが、その裏には深い個人的な傷があったのだ。
そして気づく。リクトルもまた、この件で心を痛めているのだろう。友人だったかもしれない男を、知らず知らずのうちに傷つけ続けていたのだから。
人間関係の複雑さが、政治の世界ではさらに増幅される。個人的な感情と公的な立場が絡み合い、単純な解決策など存在しないのだ。
「つまり」部屋を見回しながら理解が深まっていく。
「パピリウスの行動原理は、父親の遺志を中核として、個人的屈辱と社会的差別がそれを補強する構造になっているのか」
「その通りです」ソフィアが頷く。
「父君の遺志がなければ、単なる個人的な不満で終わっていたでしょう。しかし、三代に渡る家族の悲願という使命感があるからこそ、どんな手段でも正当化されてしまうのです」
「彼にとって十七名家制度の破壊は、政治的野心ではありません」デモステネスが重々しく結論づけた。
「父親への最後の孝行であり、家族の魂の救済なのです」
すべての断片が一つの物語を形作っていく。パピリウスという男の人生が、悲劇的な必然性を持って眼前に現れる。
彼を憎むべきなのか同情すべきなのか。判断がつかない。いや判断をつけるべき問題ではないのかもしれない。
人は皆、それぞれの事情を抱えて生きている。その事情が絡み合い、衝突し、時には破滅的な結果を生む。これが人間社会の現実なのだ。
パピリウスの選択は間違っている。だがその選択に至る過程には理解できる部分もある。この矛盾した感情をどう処理すればいいのか、答えが見つからない。
「その通りです」ソフィアが哀しそうな瞳で頷いた。
「だからこそ、手段を選ばない。ドルーススの裏切りも、ウィダキリウスとの接触も、すべて自らの地位向上のための計算的行動でした」
「しかし、それがうまくいかなかった今」デモステネスが心配そうに言った。
「彼は最後の手段として、アスクルムを戦争に巻き込むことで主導権を掌握しようとしています」
△▼△▼△▼△▼△
でもその戦争に巻き込むという選択肢があること自体、現代日本人の感覚を持つ俺にはない発想だな。
『やっぱり、目立たずに生きていきたい』と、俺の中の小さなティトゥスがまた呟いていた。
戦争という選択肢が当然のように語られる世界。
現代日本人としての感覚では、到底理解しがたい発想だ。話し合いで解決できないのか、平和的な手段はないのか、そんな疑問が頭をもたげる。
だが、この時代には現代の価値観など通用しない。力こそが正義であり、勝者が歴史を作る世界なのだ。
パピリウスの選択を理解できても、賛同はできない。しかし、この時代を生きる以上、彼の論理も無視できない現実がある。
二つの時代の価値観が胸の中で衝突し、居心地の悪さがさらに増していく。自分はいったい、どちら側の人間なのだろう。古代ローマの貴族なのか、それとも現代日本人なのか。
その答えは、おそらく明後日のセルウィリウス法務官との面談で、嫌でも明らかになるのだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます