〜戦争の足音

第12話『中央広場の希望と疑念』

ルキウス・マルキウス・ピリップスと セクストゥス・ユリウス・カエサルが執政官の年(紀元前91年)三月、ピケヌム地方アスクルム市内、ティトゥス




 春が訪れたアスクルムは、一年で最も美しい季節を迎えていた。トルエントス川から吹き上がる爽やかな風が、白い石灰岩の城壁を撫でて街中に舞い込んでくる。アーモンドの花が石畳の隙間に散り敷かれ、朝の陽射しに輝いて宝石のように煌めいていた。


 野生のスミレが石畳の隙間に紫の彩りを添え、山裾から吹く風に乗って、ボリジの青い花と早咲きのサクラソウの甘い香りが混じり合う。


 しかし確実に言えるのは、カモミールとデイジーの白い絨毯が街を取り囲む草地を覆い、この古きピケヌムの誇り高い都市に、地中海の春が豊かに息づいているということだ。



 ‥‥‥たまに詩的になるな、俺。春だからか?



 中央広場では、いつものように朝市が開かれていた。山間から運ばれてきた新鮮な野菜、トルエントス川で捕れた魚、近郊の農場で採れたばかりのオリーブ。商人たちの威勢の良い声が石壁に反響し、買い物客との値段交渉が賑やかに交わされている。陶器を売る老婆の笑い声、子供たちが露店の間を駆け抜ける足音、荷車の車輪が石畳を叩く規則正しいリズム。春の活気に満ちた、いつものアスクルムの朝の光景だ。


 だが今日は、いつもと違う熱気が広場に漂っていた。

 野菜売りの露店が立ち並ぶ広場のど真ん中に、木製の演壇が設えられている。周囲には普段より多くの人々が集まり興味深そうに、あるいは懐疑的な表情で演壇を見つめていた。買い物籠を抱えた主婦たち、仕事の手を止めた職人たち、好奇心に駆られた子供たちまでもが、この異例の光景に足を止めている。



 春の陽射しを背に受けて演壇に立つのは、リクトル・サルウィウスだった。彼の声は朝の清澄な空気によく響き、三月の花盛りの中でその姿は一幅の絵のように美しく見えた。

 

 「同胞よ!」


 リクトルの声が広場に響く。三十歳を少し過ぎた彼の顔には、理想に燃える青年の面影がまだ残っていた。ローマで修辞学を学んだだけあって、その弁舌は流暢で情熱的だ。朝の光に照らされた彼の表情は、まるで春の希望そのものを体現しているかのようだった。


 「同胞よ!」リクトルは再度、民衆に語りかける。

 

 「今こそ希望の光が見えてきた! ローマでは護民官マルクス・リウィウス・ドルーススが、我々同盟市民のために立ち上がっている!」


 群衆からどよめきが起こる。広場の端、果物屋の陰に身を潜めながら俺はこの光景を眺めていた。デモステネスとソフィアも両脇に控えている。


 「ドルーススの提案を聞け!『同盟市に市民権を付与するリウィウスの提案』——これこそが我々の悲願ではないか! もはやローマの属州民として扱われることはない。我々も正当なローマ市民として、政治に参加し、発言権を得ることができるのだ!」


 リクトルの主張は確かに魅力的だった。だが内心では首を振らざるを得なかった。そう簡単にいくだろうか?


 「だが同胞よ、我々はただ待っているだけではならぬ!」リクトルの声が一段と高くなる。


 「ドルーススの法案を支持し、ローマの良識ある人々と連帯することで、平和的に、合法的に我々の権利を勝ち取るのだ!」


 「若様」デモステネスが小声で囁く。

 「リクトル殿の主張は理想的ではあります。しかし現実はそう甘くないでしょうね」


 「どういう意味?」


 「ドルーススの法案には土地の再分配も含まれています。現在の土地所有者——特に大土地所有者たちが黙っているとでしょうか。それに審判人制度の改革も、騎士階級と元老院の対立を激化させるだけです」


 ソフィアも眉をひそめながら付け加えた。

 「それに仮に市民権を得たとしても、新市民の政治的影響力をローマが制限しないという保証はどこにあるの? 形だけの市民権で満足しろと言われるのがオチじゃない?」


 二人の指摘には頷ける部分が多い。

 確かにリクトルの楽観論には疑問が残る。元老院の魑魅魍魎どもが、そんな法案をすんなり通すとは思えない。特に土地分配問題が絡めば、既得権益層の猛反発は必至だ。ローマの政治がそんなに単純なら、今頃とっくに解決しているはずだ。グラックス兄弟の悲劇も、未来のカエサルとポンペイウスの内戦も生じる理由が無くなる。



 リクトルが演説を続ける。


 「我々に必要なのは忍耐だ。ドルーススのような良識ある政治家を支援し、ローマ内部の改革派と連携することで、必ずや道は開ける!暴力に訴える必要はない。法と正義の力で、我々の正当な権利を勝ち取るのだ!」


 群衆の反応は複雑だった。一部は頷いているが、多くの者は困惑したような表情を浮かべている。彼らの顔には「それで本当にうまくいくのか?」という疑念が浮かんでいた。

 だが、なぜそう感じるのか、その理由を明確に言語化できる者は少なそうだ。ただ漠然と、リクトルの楽観論に物足りなさを感じているのだろう。



 その時、リクトルが手を上げて群衆を静めた。


 「諸君に紹介したい人物がいる。我がサルウィウス家が招聘した、都市テーアテから来たマルシ族の若き英傑、ルキウス・アタエウス・マルスクスである!」


 演壇の脇から、一人の少年が姿を現した。

 十四、五歳だろうか。リクトルの傍らに立つルキウスは、細面で繊細な顔つきをしている。体格も華奢で小柄な方で、その細身がより際立つ。民族衣装を着ているためそれほど目立つわけでもないが、俺よりも幼く見えるときもあるだろう。その彼がマルシ族特有の編み込みを施した外套を身に纏い、堂々とした立ち振る舞いを見せている。だが、その表情には微かな当惑の色が浮かんでいた。


 群衆がざわめく。

 「なぜこのタイミングで?」

 「市議会の許可は取ったのか?」

 「マルシ族の子息をここに?一体何を考えている?」


 俺もまた眉をひそめざるを得なかった。確かに不可解だ。ドルーススの法案審議が続いている微妙な時期に、なぜマルシ族の少年をアスクルムに招くのか?それも正式な手続きを踏まずに。



 リクトルが再び手を上げる。


 「諸君の疑問はもっともだ。確かにルキウス君の招聘は、我がサルウィウス家の独断で行った。市議会への事前相談もなかった。だが、これは政治的な策謀ではない!」


 彼の声に微かな動揺が混じる。


 「ドルーススの法案が通れば、我々はマルシ族とも同じローマ市民となる。その時に備え、若き世代同士の交流を深めておくことは、将来への投資なのだ!これこそが真の政治的知恵ではないか!」


 ソフィアが小さく舌打ちする。

 「後付けの理屈ね。独断専行を『将来への投資』で正当化しようというつもり?」


 「政治的意図がないわけがない」デモステネスも呟く。

 「マルシ族は同盟市の中でも最も好戦的だ。その子息をここに招くということは、何らかの密約があるのでしょう」


 視線を向けるとは、群衆の中に混じるラビエヌスの姿が目に留まる。彼は演壇から少し離れた場所に立ち、複雑な表情でリクトルを見つめていた。その隣には、同世代の少年たちが数人控えている。おそらく自警団の候補者たちだろう。

 ラビエヌスにとって、リクトルは憧れの兄貴分だ。剣術の師でもあり、人生の指標でもある。だが、今日の演説を聞いて、彼は何を思っているのだろう?


 リクトルの独断専行への困惑?

 それとも、楽観的すぎる政治展望への疑念?


 ラビエヌスの心中を察すると胸が痛む。憧れの人物が、期待通りの言動を取ってくれないときの何とも言えない失望感は、俺にもよく理解できる。特に十一歳の少年にとってそのショックは計り知れないだろう。

 それが単に自身の理想を相手に投影した結果であり、相手に何ら落ち度がないのだとしても。



 リクトルが演説を続ける。


 「ルキウス君は、マルシ族の誇りと知恵を体現する若者だ。彼と我々の若者たちが交流を深めることで、ドルーススの理想——真のイタリア民族の統合が実現するのだ!分断統治ではなく、真の統合を!」


 ルキウスは、やや俯き加減で顎を引きながら遠くを見つめていた。その瞳に映るものは一体なんのか。その表情の奥にあるものが気になって仕方なかった。


 その時、群衆の後方から野太い声が響いた。



 「それで終わりか、リクトル!」



 振り返ると、パピリウス・ルクルスが数人の取り巻きを連れて現れていた。ウィダキリウス派の急先鋒である彼の顔には、明らかな嘲笑の色があった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る