第7話『ラビエヌスの邂逅』

ルキウス・ユリウス・カエサルとプブリウス・ルティリウス・ルプスが執政官の年(紀元前90年)九月、ピケヌム地方アスクルム市内、ラビエヌス 

 



 そんな中、おれに最も大きな影響を与えたのは、同じ私塾に通うティトゥス・アエリウス・クリスプスだった。彼は栗色の髪と瞳を持つ、いつも蝋板や紙葦パピルスに何かを書き込んでいる物静かな少年だ。


 ローマの騎士階級の子供には珍しく、その髪は額にかかるほど長く緩やかに巻癖がある。巻き髪クリスプスの名の通りだな。


 時折思索にふける際、無意識に手で髪を押し上げる癖があった。細身の体つきで、白い短衣トゥニカを着ていても肩幅の華奢さが目立った。

 栗色の瞳には、まるでここではないどこか遠くを見つめているような深い思索の光が宿っており、時として年齢を超えた賢明さを感じさせた。


 彼の表情は常に穏やかで、怒りや焦りといった感情を表に出すことはほとんどない。蝋板に向かう姿勢は真剣そのもので、周囲の騒音など存在しないかのように集中していた。

 その静寂さは威圧的ではなく、むしろ周りの者たちを自然と落ち着かせる不思議な力を持っていた。彼はおれより少し年上に見えたが、実は同い年だった。

 

「お前はこの争い、いや戦争についてどう思う?」


 ある日、おれは彼に尋ねる。

 ティトゥスは筆を置き、しばらく考えてから答えた。

 

 「戦争……。まだ戦争は始まってないよ、ラビエヌス。でも誰が勝っても多くのものが失われてしまうのが戦争だ。問題は何を守り、何を諦めるかの選択となってしまう点だね。戦争に限ったことじゃないけど」



 何かを諦める……。



 その言葉は、おれの心に深く刻まれた。


 おれにとって戦争は感情的な問題だった。ピケヌム人としての誇り、ローマへの複雑な感情、そして何より大人たちの苦悩を見ているうちに芽生えた正義感。

 それがすべてだ。


 しかしティトゥスは、既にもっと冷静に全体を見渡していた。



 ティトゥスと話し合った夜のことは、今でも鮮明に覚えている。


 「この戦争は避けられなかったと思うか?」


 「分からない。まだ戦争は始まっていない。でも対立を煽る者が居て、そして煽られる者もいる。そして双方ともに引き返せない地点まで来てしまった」


 「引き返せない地点とはなんだ?」


 「人質交換。ローマから見たら立派な叛逆行為だよ」


 「じゃあ、おれたちにできることは?」


 「生き残ること。そして、生き残った後にどんな世界を作るかを考えること」



 ティトゥスの言葉は、いつも現実的だった。


 だが、おれの中では感情の嵐が吹き荒れていた。特に春が近づく頃に起きた事件は、おれの心を決定的に変えてしまった。


 主戦派の若者たちが、ローマ系商人の店を襲撃したのだ。その商人は父の古い友人で、おれも幼い頃からよく知っている人だった。



 「あいつらローマの犬だ!」


 「同盟市を裏切る奴らに情けは無用だ!」



 若者たちは店を破壊し、商人の家族を街から追放してしまった。商人の息子は、おれより年下の少年だったのだ。彼が泣きながら荷車に家財を積み込む姿を見て、おれの中で何かが弾けた。


 「これは正義じゃない」おれは拳を握りしめる。


 「こんなことをして、一体何が変わるというのか」



 その夜、おれはティトゥスに相談した。


 「おれたちも何かしなければならない。このまま見ているだけなんて、おれには耐えられない」


 ティトゥスは長い間黙って考えていたが、やがて口を開いた。


 「自警団を作ろう」


 「自警団?」


 「街の治安を守る。主戦派の暴走も、穏健派への迫害も防ぐ。中立の立場で、市民を守る」



 それは、おれには思いつかない発想だった。

 ティトゥスの提案で、おれたちは密かに同世代の仲間を集め始めた。


 最初は半信半疑だった少年たちも、街の混乱を目の当たりにして、徐々におれたちの活動に参加してくれた。

 おれはこの30人ほどの少年たちを『街を見守る者たちの隊』と名付けた。任務はあくまで見回りと通報であり、武器は持たない。制服の代わりに黒い肩布のみを着けることとした。


 団員は、家柄のよい子弟から農民の息子までさまざまだった。誰もが「街を守る者」としての誇りを胸に秘めていた。

 そのためおれは自警団への指導は容赦せず、訓練は過酷なものとなった。強風が吹こうと豪雨だろうと欠かさぬ巡回。昼食は干し肉とナツメだけ。日没後の持久走。


 だが、おれが率先して誰よりも早く走り、誰よりも重い荷物を背負い、怪我人には自ら手当てをした。


 そして、自警団はいつしか『ラビエヌスの黒意隊』と呼ばれるようになった。



 とは言え、所詮は子供の集まりだ。できることは限られている。夜警をしたり、商店の見回りをしたり、時には暴徒と店主の間に立って仲裁したり。だが、少しずつ効果は現れた。街の暴力的な事件が減り、市民も少し安心して暮らせるようになった。



 父は最初、おれの活動を心配していた。

 危険すぎる。子供がそんなことに関わるべきではない、とすら言っていた。

 母は目にうっすら涙を堪えながら、何も言わずおれの目を直視し微笑むのみ。しかし、おれたちの真摯な取り組みを見て、やがて理解を示すようになった。



 「息子よ、お前は立派だ。だが、決して無理をするな」



 サビヌス師範はおれの肩を叩き、無言で肯く。

 カリストラテス先生は、ティトゥスやクリスプス商会のメンバーと会合を開き、何か議論しているようだった。おれの行動に対しては「キミはやりたいようにやればいいわ。それが一番人生を豊かにするのだから」といつもと変わらない笑みを浮かべていた。


 一方、リクトル兄貴には何も伝えることができなかった。何故だろう。



 △▼△▼△▼△

 

 春が近づき外での活動が心地よい時期、市で一番大きな広場でリクトル兄貴による決起集会が開かれた。兄貴は広場の中央に演台を設け、その上で集まった人々に熱い思いを語っている。演台には何人か登っているようだ。


 おれは自衛団の参加希望者を数人連れて、少し離れた場所から集会を眺めていた。リクトル兄貴の主張は聞いておきたいし、皆の意見も把握しておきたかった。ティトゥスの影響かな。


 リクトル兄貴は誇り高くいつもの持論を展開する。


 「ローマに市民権を懇願するだけではいけない」

 「イタリア人として独立した精神と法の体系を持つべき」

 「ドルーススの後に続け」


 兄貴の演説はさすがローマで弁論術を学んできただけのことはある、と思わせるだけの説得力があった。

 そのため集会では反ローマ・反市議会の気運が高まっていた。



 おれにとってリクトル兄貴は、まさしく師匠そのもの。木剣の持ち方も、読み書きも、彼から学んだ。


 『怒りと力は、正義に従うべきもの』


 リクトルがそう教えてくれたのだ。

 だからこそ、おれは彼を「兄貴フラテル」と呼ぶ。


 リクトルの考えに一理あるのはおれだってよくわかっている。ただティトゥスと会話をするようになってから、おれの中で兄貴の意見とは別の考えを受け容れる気持ちが芽生えていた。


 今思えば、父さん母さん、サビヌス師匠、カリストラテス先生も皆、おれの意見を尊重しつつ、自分の意見もしっかり持っていたもんな。だからこそおれは集会の邪魔をすることなく、ただジッと兄貴を見守り続けていた。


 しかしその兄貴が見慣れぬ少年を紹介したころから雲行きが怪しくなる。更に輪をかけて、群衆に紛れていたパピリウスが兄貴に向かって挑発的な言葉を投げかけ始め、更に雰囲気が悪くなった。


 おれは仲間たちに『反応するな。ただ、危なくなる前に離れるぞ』と伝え、無言で周囲を観察し続ける。


 リクトルとパピリウスの応酬が続き、やがて民衆にもその熱が伝わりることでヒートアップする人も出てくる。


 次第に群衆の中で次第にパピリウスへの野次が生まれ、それに反応したパピリウスは顔を真っ赤にして失言を繰り返すようになる。やがて民衆の熱はさらに増し、一部が石を投げ始めた。さすがにこの状況は不味い。おれは仲間とこの場を離れることを決めた。



 最後に群衆の中に佇むリクトル兄貴が目に入った。兄貴は苦虫を潰したような顔をしていた。誰に向けた苦味だったんだろうか……。


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