異世界転石の先

菊姫 新政

Prologue

 その町には、どこにいてもその姿を見ることのできる樹がある。手を伸ばしても葉に触れることすらできない。背を反らせてもその頂点を見ることは叶わない。千年を超える時を経て、歴史の中でその身を焼かれても命を吹き返し、今なお青い空を求めるように伸び続ける巨樹。


 その樹に白い小さな花が付いたのは、もう随分と前の話だ。丸く愛らしい花は優しく爽やかな香りと共に幾年も咲き続け、やがてその根元に小さな実を付けて萎れる。小さな実もまた、幾年もの歳月をかけて成長する。町の人たちの祈りを受けて、緩やかに、少しずつ、膨らみが確かなものになっていく。子どもの指で摘まめるような大きさだったそれは、今ではもう大人が両腕で抱えねばならないような大きさだ。


 枝と葉でくるまれるようにして育まれていたその実が地上まで降りてきたのは、先日のことである。実と樹をつなぐ子房柄がゆったりと長く伸び、誰もが見上げるしかない場所に揺れていた実を地上に降ろしたのだ。


 町の人々は、こぞって樹の周りに集まった。人々、とは言っても人間ではない。異形の魔物たちである。人間と同様の見た目の者、獣のような者、羽や尾や角がある者、小さい者大きい者、実体のない者、種々多様な魔物が集まってこの町を形成しており、画一性は全くない。


 子房柄はもうみずみずしさを失い、枯れた枝のようになっている。実が割れる頃合いだ。みんなが固唾をのんで、ちょっぴり遠巻きにして、息を潜めて、幾重にも花弁を重ね合わせたような乳白色の実を見つめている。


 静かに、何の音もなく実の表面が剥がれ始めた。秋に落葉樹が葉を落とすように、自然にはらはらと剥けていく。やがて、柔らかな綿毛に満たされた揺りかごが現れた。その真ん中には、小さな子どもが丸くなったまま眠っている。臍とつながっていた子房柄が軽く乾いた音を立てて落ちると、子どもは微かに身じろいだ。


 それを機に、町の人々の群れから数人が出て、子どもに近づいた。手を伸ばしても触れられない距離で足を止め、その場で膝を折り、目を閉ざしたままの子どもを静かに見つめた。


「長き時をお待ち申し上げました。」


 一人が低く、小さな声で囁いた。


「どうか、我らにあなた様が樹から授かった真名をお教えください。」


 子どもはぎこちない動きで、綿毛の中から身を起こした。微かに湿り気を含んだ黒い髪が揺れる。んん、と喉の奥で小さく唸って、子どもは瞼をゆっくりと上げた。一筋の光も漏らさないような深い黒色の瞳がじっと相手を見つめた。その一瞬、見つめられた側は微かに息を飲んだ。ただ、それは余りにささやかかで、すぐ隣で同じように膝を着いた人にしか分からないものではあったが。


 しばらく、子どもはぼんやりと放心していたが、やがてふっくらとした唇から声を漏らした。


「私は魔王だ。名は、リュゼ。」


大きくはないが、その場に集まった町の人すべてに届く声だった。


「…リュゼ様。とこしえに、御身に幸いの多からんことを。」


 子どもの前に進み出た人々は、そろって首を垂れた。子どもは不思議そうな顔でそれを眺めていたが、人々が顔を上げると、にこりとあどけない笑みを浮かべた。


「みんなも、そうだと良いな。」


 そう言って、ふああと大きなあくびをする。たちまち、黒い瞳は眠そうに半分閉じられ、華奢な身体は綿毛のゆりかごに戻ってしまう。おねむのようである。


 何人かが毛布や籠を手にして慌てて駆け寄り、子どもをくるんで運び出した。


「ああ、その子房柄と揺籃は、保存しておいてください。いずれ役に立つ時が来るかもしれません。…来ないに越したことはないのですが。」


 と、最初に子どもに話しかけた人が立ち上がりながら周りに指示を出す。同じように立ち上がった隣の人が、その肩をポンと軽く叩いた。


「あの魔王様とそっくりで、驚いたな。」

「そんなことはありません。」

「司書長がギョッとしていたのに、気付かなかったと思うか?」


 司書長と呼ばれた人は、上目遣いでじとっと睨みつけた。何しろ、司書長は背が低い。幼い子どもくらいしかない。隣の人は、そこそこ背が高い。大柄な人間の成人男性並みの上背はある。どうしても、見上げる形になる。が、司書長は文句は言わず、代わりに軽くため息を吐いた。


「御髪と瞳の色だけです。お顔立ちは、違います。そもそも、外見と性情に関連があるか否かも定かではありません。」

「でも、あの色、あの魔王様以外に見たことはあるか?」

「いえ、ありませんが。」

「ということは、前代未聞ということだな。あなたは全ての魔王を記憶しているんだから。」


 あーあ、と背の高い方は嘆息した。気のない風を装っているが、微かな不安と期待が入り混じっている。


「あの感じなら、我々の心配も杞憂に終わるんじゃないか。」

「さあ、どうでしょうな。」

「あの魔王様の第一声は、何だったんだ?」

「さて、何でしょうな。」


 司書長は面白くなさそうにそっぽを向いた。何でも知っているくせに、何にも教えてくれないと評判の人である。背の高い方は、軽く屈んで司書長の耳に口元を寄せた。散り散りに歩み去る町の人々のざわめきに紛れさせるように、小さな声で囁く。


「あの魔王様と同じなら、また繰り返すのか?」


 司書長は木の根元に目を向けた。実の置かれていた跡が微かに残っている。


「トウリ、あなたはどうなさるのですか?」

「質問に質問を返すのは野暮だぞ。」


 二人は互いに相手の発言を目で促す。やがて、トウリと呼ばれた背の高い方が、軽く肩をすくめて見せた。


「その時にならなきゃ、分からない。」

「…私も同様です。」

「さっきから、ずるい答え方だな。」

「いずれにせよ、150年にも及ぶ空白期間を経て、漸く我々に与えられた魔王です。まずは魔物の生活の安定を図らねばなりません。いかなる魔王であれ、存在することが重要です。魔王の存在は、陰に陽に、魔物の生命に影響を及ぼしますから。」


 司書長は淡々と述べる。その口調にはほとんど起伏が無い。辞書を棒読みしているかのようで、言っている言葉は分かるが意味を理解しづらい。


「20年や30年で奪われてはかないません。しっかりお守りしてくださいよ。」

「そういう役目は、別の者に言って欲しいな。私は戦うのは本分じゃない。子守はするがね。」

「名ばかり四天王ですな。」

「知っているくせに。その名も樹から与えられただけだぞ、司書や魔王と同じでね。」


 どこかに諦念の混じった調子で言うと、トウリはくるりと樹に背を向けた。


「お茶でも淹れますよ、司書長どの。水の四天王の名に懸けて、至高の一杯をね。」

「そんなところで本分を発揮しなくてよろしい。ですが、お茶は頂きましょう。」


 司書長はトウリの後に続いて歩き出した。一度だけ、樹を振り返って。

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