裏門に咲く菖蒲(あやめ)
羽翼綾人(うよく・あやひと)
第一話:霜の降る褥
すでに外は暗くなっている。
「……今宵は、殿がこちらへお越しになると」
「は。そのように聞き及んでおります、奥方様」
侍女頭、
三月ぶり。
指を折って数えるまでもない。夏から秋へと移ろう間、夫である
「……そうか。ならば、支度を」
「かしこまりました」
瀬戸は、感情のない顔で深く一礼すると、他の侍女たちに目配せをした。
すぐに、湯気の立つ白湯が枕元に置かれた。
全てが、淀みない、手慣れた流れ作業だった。
菖蒲は、そのすべてを無感動に眺めていた。
この部屋は、まるで鳥籠のよう。そして自分は、主の気まぐれを待つだけの、鳴かぬ鳥。
鳴かされなくなって、どれほどの年月が経つだろう。
菖蒲の身体は、成熟した果実のように、その内に熱を秘めていた。
薄い絹の寝間着越しにもわかる、しなやかな四肢。
侍女たちが香木近くで
唇は、何も塗らずとも熟れた木の実のような紅を帯びている。
それは男心を誘う形をしていたが、意思の強い冷たい瞳は、主人以外の男衆を自然と遠ざけた。
氷の仮面の下に、溶岩のような情熱を隠している。だが、その熱を知る者は、この屋敷には誰もいなかった。
やがて、二人の年嵩の侍女が、菖蒲の寝間着の帯に、音もなく手をかけた。
「奥方様、失礼いたします。御身支度を」
「……では、進めなさい」
短い承諾の声を合図に、菖蒲にとって最も屈辱的な儀式が始まる。
彼女は姿勢を正し、目を閉じて静かに息を整えている。
そばにまだ大人ではない侍女が跪き、緊張した手つきで奥方の絹の着物の胸元に近づいた。
指先がそっと布を滑らせ、慎重に開くと、冷たい空気が肌に触れる瞬間、奥方の肩が小さく震えた。
小さな手が胸に触れ、優しい動きで調整を始めると、部屋には微かな布擦れの音だけが響いた。
奥方の顔にはわずかな紅潮が浮かび、目を閉じたまま静かに耐えるような表情を浮かべていた。
その色を見たもう一人、その侍女の姉が、「失礼いたします」と彼女の寝間着の裾を静かにたくし上げた。
そして小さな
「ん……っ」
思わず、息が漏れる。侍女たちの動きは、感情を一切排した、熟練の職人のように正確だった。
「奥方様、お楽になさいますよう。このまま、しかと濡らしておかなければ、私どもがお叱りを受けますゆえ」
その声には、何の気持ちもこもっていない。菖蒲の身体は、不本意な熱を帯び、じわりと潤み始める。
心が、悲鳴を上げようとしていた。自分は、畑か何かと同じなのだろうか。種を蒔かれる前に、人の手で耕される、無機質な土地のように。
準備が整ったと判断した侍女たちは、乱れた寝間着を直し、深々と頭を下げた。
「御支度、整いました」
「……下がれ」
氷のような声で命じると、侍女たちは音もなく退出していった。
入れ替わるように、忠晴の足音が聞こえてくる。襖が開いた。
彼は、戦国きっての勇将として、いくつもの首をもぎ取ってきた歴戦の男である。
しかし、豊臣の世となり、関ヶ原の御陣が終わると、もとの荒々しさが嘘のように消え、万事、無駄なく合理的にことを進める事務官のようになっていた。
それでもまだ常の男よりは、閨においてもなお、戦場の匂いを纏っているかのようだった。
汗と鉄、そして獣の匂い。彼は、菖蒲の顔を見ない。
ただ、侍女たちによって「準備」が整えられた様子を見ると、無言のまま自身の帯を解いた。
彼が身体を重ねてくる。その重みが、菖蒲の心を軋ませた。
「……始めよう」
それが、唯一の言葉だった。
彼の行為は、何の情緒もない、ただ目的を遂行するための作業に等しかった。
面倒なのか、下半身だけ裸体となり、菖蒲の衣も最小限だけたくし上げた。
そして、侍女の仕事を確かめるように、水気のある部分を当てがって、差し入れていく。
肌と肌というよりも、衣と衣が触れ合っている。そして、生殖のための接合と刺激が進められている。
──世継ぎなきところは、当主が亡くなれば改易。
それが慶長の流儀と化していた。戦が絶えて、当主が急死することなど、そうあることでは無くなったが、それでも忠晴は実子を儲ける必要があった。
これは、御家のためであり、有馬家が養う者たちのため、二人が為すべき必要な奉公である。
菖蒲は、揺れる身体をよそに、闇に慣れた目で、天井の木目を数えていた。
一つ、二つ、三つ……。そうして意識を別の場所に飛ばさなければ、この屈辱は耐えられそうになかった。
やがて、忠晴は低い呻き声を上げると、満足したように彼女の上から身を離した。そして、汗を拭うこともなく、すぐに背を向ける。
やがて、いびきが聞こえてきた。戦の場に慣れている彼は、眠るのが異常なほど早い。
ゆえに閨の余韻や睦言を取り交わす遊びの時間は、いつもなかった。
後に残されたのは、べたついた不快感と、魂が空っぽになったような虚無感のみ。
──人によっては、極楽とも呼ばれるこの時間。わたくしにとっては地獄の責めに等しい苦行でしかない。何を愛すればいい、何を恨めばいい。
菖蒲は、心のうちを乱しながらも、表情を変えることなく、ただ目を閉じて朝が来るのを待った。
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