第三話 虎が雨 三

    三


 下谷茅町二丁目に小普請組御家人・半井嘉門の組屋敷はあった。そこへ町方同心の暮坂外記が耳助を伴っていった。

 中間に言付けを頼むと、

「旦那様がおっしゃるには、町方の不浄役人に会う義理はないと仰せでして……」

 中間が申しわけなさそうに答える。

「ほう……不浄役人ときたか。確かに町方同心は武家を調べる権限はない。だが、町方同心も小普請組も、同じ御家人だ。娘の行方不明を騒ぎ立てて、半井の家を困らせようというんじゃねえ」

「へえ……そうですか」

「だが、嘉門がおれに会うつもりがないなら、家事不取締のかどで、目付筋めつけすじの役人が代わりに調べに行く。そいつらは、おれより甘くはねえぜ、と伝えておけ」

 外記の迫力におののいた中間は、奥へ駆け戻り、主人に伝えると、すぐに主人らしき男が出てきた。小柄で風采のあがらない四十がらみの武士が青い顔をして出てきた。

「いや、さきほどは失礼いたした。暮坂どのと申したか。こたびの不始末、御目付にだけは勘弁ねがいたい」

 町奉行の役人は江戸市中の町民を取り締まるが、武家の旗本・御家人の監察をするのは御目付、小人目付の仕事だ。目付は緒役人の勤怠などを調べ、武家で生じた犯罪には裁判権も有していた。

 嘉門はこんどの娘の失踪事件について、目付筋に詮議されるのを恐れたのだろう。名目は娘を町家に女中奉公させたものだが、内実は娘を金貸しに妾に出したのだから、あまり人に言えた話ではない。

 外記は嘉門の貧弱な身体つきを見て、帳面づけや算盤は得意そうだが、武芸はからきしだろうと見定めた。とても益造を一刀のもとに斬殺した腕前には見えなかった。

「なに、おれも権柄尽けんぺいずくに出ようというんじゃない。益造殺しの下手人を探索しているだけで、半井の家に迷惑をかけるつもりはねえ」

「なにぶん、よろしくお願いいたします」

 武士にとって家禄を失わないことだけが最重要課題であった。

「ちょいと捜査の必要上、娘のお絹さんのことで聞きたいことがあるだけだ」

「そうですか、こちらへどうぞ……」

「旦那、その間、あっしはこの家の奉公人や近所の者に探ってみます」

「おお。頼むぜ、耳助」

 耳助が家の裏に回った。外記は奥の八畳間に案内された。

 嘉門と同じ年くらいの痩せた女が部屋に白湯さゆを出た。妻の瑞枝みずえだ。なにごとも夫の言うがままに生きてきたかのような、温和おとなしい女であった。

 下がった妻は隣の部屋で五歳くらいの男の子をあやしている声が聞えた。半井の跡取りで、お絹の弟の藤吉であろう。

「益造が殺された件は知っているか?」

「えっ、益造めが……」

 嘉門は心底驚いているようだった。

「いや、あのような高利貸しの因業親父はそのうち誰かに殺されると思っていたが、本当に殺されるとは……」

「益造が殺される二日前に、貴殿の娘御が女中奉公に出て、その日のうちに消えたと聞いた」

「は、はい……しかし、その件と益造殺しに関係があるとは思えませぬが……」

「お絹殿は平林圭介という許婚者がいたな。そいつも二日前に消えている。噂じゃ二人で示し合わせて駆け落ちしたそうだが……なにか娘から便りでもなかったのかい?」

「いや、一向にございません。いったいいずこに消えてしまったのか……仮に圭介が手引きして駆け落ちしたとしても、お絹のせいではありませぬぞ。だいたい、女のたしなみは男に従うこと。娘は圭介にたぶらかされ、駆け落ちしたに違いありませぬ」

 この哀れな男はこうやって、己に都合のいいようにいいわけを続けて生きてきたのであろう。会ったこともない娘のお絹が気の毒になった。己の役付きのために因業な金貸しから大金を借りるという愚計ぐけいが、若者たちに悲劇を招いたという事を自覚していないようだ。

「女のたしなみねえ……実の娘を狒々親父に妾奉公に出させることも、女のたしなみかい?」

「うっ……」

 嘉門が目を見張り、赤くなったり、青くなったりして言葉につまった。

「それで、昨晩はどこかに出かけましたかな」

「わしは家で内職の写字写本をして、家からは出ていないが……よもや、わしを益造殺しの下手人だと疑っておられるのではないでしょうな。わしは決してそんな事はしておらんぞ。誓ってもいい」

「なに、これもお役目のうちでしてな。平林圭介の親とは知己なのですかな」

「ああ、父親の小十郎とは昔馴染みだ。それで伜の圭介とうちのお絹に許婚者の約束をしていたが、今は卒中で寝込んでおる……」

 嘉門が言い淀んで下を向いた。友人の小十郎が元気なら、嘉門の横暴を許さなかっただろう。

「ほう……」


 外へ出ると、門の外で耳助が待っていた。外記は近くの団子屋へいって、耳助に団子と茶をふるまい、話をきいた。

「疲れたときには甘い団子と渋い茶がいいですねえ、旦那ぁ」

「それで、耳助。半井の昨夜の動向はどうだった?」

「半井の女中や中間、近所の者や棒手振ぼてりなどに聞き込みましたが、たしかに嘉門は昨晩、外出していないようです」

「そうか……」

「それに、娘のお絹も五日前からまったく実家に寄りついた形跡もねえようですよ」

「家に帰れば連れ戻されるしなあ……」

「駆け落ち相手の平林圭介の家のことも聞いてみました」

「そうかい、どうだった」

「下谷の御切手町おきってまちに平林家がありますが、半井と同じような貧乏御家人のようです。丑松一家がそちらに匿っていねえか、調べに行きましたが、いねえようです」

 平林小十郎は十年前から卒中で倒れており、無役の小普請組であるがゆえ、小十郎の妻のたまきの繕い物の手間賃や、長男の圭介と次男の庸介ようすけの傘貼り内職などで生計を立てているらしい。

「昨今の御家人にはよくある話だ。伜の圭介はどんな男だい?」

「学問の面で優秀でして、昌平坂学問所では比較的良い成績だったそうで。と、いっても同校の儒官になれるほど優秀でも、コネがあるわけでもねえといった具合です。近所でも真面目な堅物と評判でした」

「圭介ってのは、武芸のほうはどうだい?」

「武芸は不得手ですね。役者のように色白で、線の細い男ですよ。とても一太刀で人間を仕留められるような腕ではないとか」

「ふーむ……」

 嘉門に続き、圭介も深編笠の侍、もしくは下手人ではなさそうだ。

「お絹と仲はどうだった。許婚者とはいっても、当人同士が恋仲とは限らんしな」

「それが、幼い頃から仲がよろしいようで。筒井筒つついづつ、振り分け髪も肩過ぎぬ、って奴で、幼いころから互いに憎からず思っていたようですぜ」

 筒井筒は、幼なじみの男女が井筒のそばで背比べをしあって成長し、互いに初恋で、年頃になったとき男が女に歌を贈り、二人は結ばれたという話だ。

「伊勢物語か……筒井筒に出てくる男の方は、夫婦めおとになってから、別の女の元へも通った男だった。こっちの筒井筒は女の方が狒々親父の生贄いけにえに出されたか……」

「圭介はお絹の女中奉公を妙に思い、嘉門を訪ねて問いただしたようですが、嘉門は圭介を頭ごなしに無礼者だと怒鳴りつけ、許婚者を解消して追い出したようですぜ」

「無茶苦茶な親父だな……」

「それで思い詰めた圭介が益造の家からお絹をさらったんじゃねえかと、近所の者は噂しておりました」

「あの頑固親父に抗うにゃ、圭介じゃ太刀打ちできそうにねえなあ……確証はできねえが、噂通りかもしれねえなあ」

「圭介が益造を殺したとお疑いですか?」

「さてな……風聞ふうぶんどおり、圭介とお絹が駆け落ちしたとして、三日も経ってからまた益造の所へ行って、彼奴を殺しに行くとは考えづらい」

「そうですよね……」

「平林家の残った家族に、消えた息子から手紙の一つも届いたかどうか。そいつが知りたいな」

「御切手町の平林家の周辺で聞き込みをしてまいりやす」

「たのむぜ、耳助」

 残った茶を呑みこみ、耳助が御切手町へ駆けていった。耳助は小太りの身体つきだが足が速い。外記も聞き込みを手伝ってやりたいが、町方同心が町家の者に聞き込みなどに言ったら、警戒されて訊き出せるものも訊きだせない。

 茶屋で外記が待つ間に、耳助が近所の者に探りを入れた結果、どうやら、圭介からの手紙も連絡もないようで、親が心配しているという。

「それともうひとつ、妙な男のことを聞き出しました」

「妙な男?」

漆畑千久馬うるしばたちくまって男です。下谷の御家人の伜で、圭介とは同い年の幼なじみです。ですが、こちらは大きくなるにつれて、不行跡がすぎて勘当されてしまい、浪人となって深川仲町の方で長屋住いをしているとか。近所の者の話によると、浪人になってからも圭介は千久馬と親しく行き来していたようで、あるいはこいつが駆け落ちをそそのかしたんじゃねえかという者がおりました」

「すると、圭介とお絹が駆け落ちしたとすれば、その千久馬って奴がかくまっているかもしれねえな」

「それと、もう一つ。漆畑千久馬は心形刀流しんぎょうとうりゅうの道場へ通っていたそうで、剣術はけっこう強いという話です」

「ほう……」

 外記はちらりと益造殺しの下手人候補にあげかけたが、殺しの動機が今のところない。友人のために殺しまでするとは思えなかった。

「その千久馬の住む深川の長屋へ行ってみるか」

 外記が鞘を持って縁台から立ち上がった。

「へい。わかりやした」


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