後編

静かな沢の音に耳を傾けながら、小川から離れ山の奥へとさらに進んだ。

結局、カブトムシやクワガタを見つけることはできなかった。

子供の頃の思い出が美化されていたのか、それとも山の環境が変化した影響で本当にいなくなってしまったのか答えはわからなかった。

家に戻ると父が裏庭で草刈りをしていた。縁側に腰掛け黙ってその背中を見つめる。しばらくすると、父が汗を拭いながらこちらを振り向いた。


「どうだったか、山は?」


思わず言葉に詰まり、ただ首を横に振った。父はそうかと一言だけ呟くとそれ以上何も言わなかった。

夕食は、母が作ってくれたゴーヤとベーコンの味噌野菜炒めとそうめんだった。

子供の頃はゴーヤの苦みが苦手でいつも残したかった。しかし、ふとこの味が恋しくなって帰省する前に母に頼んでおいたのだ。

食卓に並んだゴーヤを一口食べると、あの頃と変わらない、甘味噌の味の後に広がる独特の苦みが口いっぱいに広がった。

食事を終え、父と母と三人でテレビを見ていた。

気温も下がり、縁側から入ってくる風が心地よい。

母が洗い物をする音が、静かな空間に響く。

テレビでは子供の頃に見た昔の映画が、新しい声優による吹き替えで放映されていた。僕はスマートフォンを手に取りながら、なんとなくその映像を眺める。

今の吹き替えは、なんだかみんな同じような声に聞こえる。

昔の声優はもっと個性的で、耳に残る声でイントネーションも記憶に残るものだった記憶がある。

逆に言えば自分のこだわりが強くてそう思ってしまうだけなのかもしれない。

みんな同じような声に聞こえるのは逆に考えれば、昔に比べてそういうのに興味が薄れたのか、それとも演技指導のマニュアルが共有化されクオリティが底上げされたがゆえに吹き替えの水準が向上したという見方もできる。

最近見たジェラシック・パークの最新作だって声優経験の少ない俳優が声を当てているのにあまり違和感が少なかったからである。


そんなことをぼんやり考えながら、横になってスマートフォンの画面をスクロールした。

指先で情報を追いかけるその一方で、頭の中では昼間に見た変わり果てた故郷の山と、少し寂しそうだった父の横顔が一度だけ浮かんで消えた。




縁側で過ごした夜は、いつもよりずっと短く感じられた。

翌朝、少し早く目が覚めた僕は、なんとなく昨日の小川へと足を向けた。

ひんやりとした朝の空気が頬を撫で、辺りはまだ静けさに包まれている。

メガソーラーの重機の音も、この時間だけは聞こえない。

木漏れ日が地面にまだら模様を描き、その光の中を僕はゆっくりと進んでいった。

沢のほとりに辿り着くと、僕は息をのんだ。

そこには、白いワンピースを着た長い髪の少女が、水面をじっと見つめて立っていたのだ。

幼い頃、僕がこの場所で遊んでいた時に、こんな少女と出会った記憶はない。

彼女はまるで、この山の精霊か何かのように、周囲の景色に溶け込んでいる。

「おはよう」

僕は声をかけた。

彼女はゆっくりとこちらを振り向いたが、何も言わず、ただ僕の顔をじっと見つめている。

その瞳はどこか寂しげで、遠い昔の記憶を宿しているかのようだった。

僕はもう一度、言葉を探した。

「君は、この辺の子かな? こんな朝早くに、何を…」

僕の問いかけにも、少女は答えなかった。

ただ、静かに僕の言葉を聞いている。

その沈黙が、重く、そして不思議な感覚を僕にもたらした。

僕は、この少女がただの子供ではないような気がした。

彼女が発する、どこか現実離れした透明な存在感に、僕は少しずつ恐怖を覚えていく。

しばらくして、少女はふっと笑った。

それは、感情を読み取ることができない、どこか空虚な笑みだった。

そして、彼女は再び水面に目を落とすと、ぽつりとつぶやいた。

「ここは…昔と、変わってしまった…」

その声は、まるで風に溶けるかのように、か細く儚い響きだった。

次の瞬間、少女の姿は、陽炎のようにゆらりと揺らぎ、僕の目の前から消え去った。

僕はその場に立ち尽くし、ただただ、呆然と目の前の水面を見つめていた。

しばらくして、太陽が山の頂を越え、強い夏の日差しが僕を照らし始めた。

一気に気温が上がり、額に汗がにじむ。

熱中症か、それとも寝不足のせいだろうか。

昨夜のテレビの吹き替えを「みんな同じ声に聞こえる」と嘆いていた自分が、まさか幻覚まで見るようになったとは。

僕は苦笑しながら、再び家へと続く道を歩き始めた。

故郷の山は、もう僕が知っていた昔の姿ではなく、変わり果てた景色の中、あの少女の言葉だけが、僕の心に重く響いていた。


夕食は、揚げたての唐揚げがメインだ。衣の香ばしい匂いが食欲をそそる。

父はまだ帰ってきていなかった。

僕は昼間にあった出来事を、軽い気持ちで母に話してみた。

白いワンピースの少女が水辺に立っていたこと。そして、昔と変わってしまったとつぶやいて消えたこと。

話を聞き終えた母はからからと笑った。


「あんたも、暑さで変なものを見たんだねぇ。この歳になっても、そういうことがあるんだから」


別に期待していたわけではないが予想通りというか、月並みの返答が返ってきた。

母はそう言って、僕の皿に唐揚げを乗せてくれた。

幻覚だと言われれば、そんな気もする。

父がいたら、どんな反応をしただろうか。きっと、馬鹿馬鹿しいと一蹴するか、あるいは何も言わずにただ無言で箸を進めるか。

あの人はいつもこんな感じだった。僕の悩みや、少し変わった話には関心を示さず、自分の信じる正論だけを振りかざす。

そんなことを考えていると、母が楽しげに話し始めた。


「そういえばこの前ね、妹の家族が旅行に連れて行ってくれたのよ。温泉に入って、美味しいものも食べてね。本当に嬉しかった」


妹の旦那は爬虫類のように目が離れた顔をした無愛想な男だった。

以前会った時は酒が入ると昔の父のように態度が大きくなり、粗暴になるのが気になった。自分の読書趣味をオタク臭いと馬鹿にしたように話したり、妹に対して当たりが強い場面を見てあまり良い印象はなかった。

妹の事はあまり好きではなかったが、ああいうのを見ると結婚というのも大変だなと思ってしまう。

あの人のように外面だけ整えた内弁慶は個人的に好きになれないが、親戚になってしまったので無碍に扱うことも出来ない。

母の楽しそうな長話に、退屈を覚えつつ適当に相槌を打つ。

歳を取ってくるとこういう感じに口数が増えるのかもしれない、と密かに思った。


「へえ、いいなあ」「そうなんだ」「よかったじゃないですか」


心ここにあらず。唐揚げの皿に目を落とすと、揚げたてだったはずのそれは、すっかり冷めてしまっていた。

胸の中のわだかまりを誤魔化すように、冷え切った唐揚げをひとつ口に運んだ。

当初は熱くて歯触りの良い衣も、油が滴りジューシーだった中の鳥肉も、すっかり脂っこくて冷えたジャンクフードみたいに感じられた。

食卓に流れる一見穏やかな時間は、冷めた唐揚げのように心の温度とはかけ離れてしまっていた。




食卓を囲む穏やかな時間と、心の中で冷え切った唐揚げ。

その温度差に耐えきれず、早々に席を立った。

明日に駅に向かい、明後日には帰ろうと思った。

何故なら、その日の午後には妹夫婦がやってくるからだ

特撮好きの甥は可愛いが、妹夫婦とは顔を合わせたくない。

特にあの酒癖の悪い義兄の爬虫類顔から嫌味を聞かされるのはあまり気持ちのいいものではない。

スマホの時計を見ると、まだ19時前だった。夏なので夕食を終えても外はまだ明るさが残っている。

ふと、昼間に見た少女の姿を思い出す。あれは本当に幻覚だったのだろうか?

一度に気になってしまうとそれを確かめたくて、いても立ってもいられなくなる。

リビングで片づけをしている母に「ちょっとコンビニに行ってくる」と告げ、冷蔵庫横のラックに置いてあった災害用の懐中電灯を手に取った。


「懐中電灯なんて、もうそんな時間じゃないだろうに」


母の不思議そうな声が背中に飛んできたが、振り返らずに家を出た。

昼間はあれだけ存在感を放っていたメガソーラーも夜になるとその輪郭を闇に溶かし、静かに佇んでいる。

昼間の重機の音も、蝉の鳴き声も、ここでは一切聞こえない。

ひんやりとした夜風が、火照った頬を撫でていく。


懐中電灯の光を頼りに、山道を進んだ。

何かに追い立てられるように、あの川を目指す。

もしもまた…あの少女に会えたら。その時、僕は何を話せばいいのだろう。

昔と変わってしまったこと、大人になってしまった自分自身のこと。

そして、故郷の山を壊してしまった僕たちの罪悪感を…彼女は許してくれるだろうか。

そんな思いを抱えながら、僕はただひたすらに懐かしい小川へと向かって歩き続ける。

夜の色に染まった木々のざわめきだけが、焦燥感を煽るようだった。


小川に辿り着くと、思わず息をのんだ。

昼間と同じように、白いワンピースの少女が川の方向に顔を向けるように立っていたのだ。

懐中電灯の光が、彼女の長い髪と白い服を淡く照らし出す。

ここを訪れた存在に気づいているのか、あえて反応しないのか彼女は振り返ることもなく…じっと水面を見つめている。

彼女に声をかけることもできず、ただ遠くからその姿を見守っていた。

すると、少女はゆっくりと両手を広げた。まるでオーケストラの指揮者のように。

その瞬間、森のあちらこちらで弱々しい光が点滅し始めた。

それは、まるで夢でも見ているかのような幻想的な光景だった。

いくつもの小さな光が、点滅しながらゆっくりと宙を舞う。

その光景は子供の頃に家族で夜のダムにホタルを見に行ったときの光景を思い出させた。


父と母、そしてまだ小さかった妹。

あの頃の父は仕事に疲れてはいたけれど、時折見せる笑顔は今の自分よりもずっと若々しかった。


「ほら、すごいだろ」と、得意げにホタルを見せてくれた。


あの時の家族は本当に楽しそうで、幸せそうだった。

それが、自分にとっての一番楽しかった子供の頃の思い出だ。

たくさんの光が少女を中心に広がり、一つの大きな光のロードを作っていく。

ここにまだこんな数の蛍がいたのかと驚くが、その光景はあまりにも美しく、僕の胸を締め付けた。



あの頃の仲間達は今どうしているだろう。

結婚して家庭を持った悪戯好きだった友人、起業して海外を拠点に活動している部活のリーダー、夢破れて引きこもりになってしまった中学時代の悪友。

みんな、あの頃の僕らと同じようにそれぞれの人生を歩んでいる。

ホタルの光のように儚くも力強い光を放ちながら。

光のロードの先に、少女は静かに立っている。

彼女は失われた過去を思い出させてくれているのだろうか。

ただその幻想的な光景をじっと見つめ続けることしかできなかった。


意を決して、少女に問いかけた。


「君は、この山から去るのか?」


少女は振り返ることなく、静かに答えた。


「ここは、もう私たちが住める場所ではなくなりました」


さらに言葉を続けた。


「僕たち人間が山を開発したからか?」


彼女の返事は、少しだけ間があった。


「それだけではありません。ただ…ここはもう、昔のままの自然が失われてしまったからです」


その言葉の意味を深く考える間もなく、少女の体がひときわ強い光を放ち始めた。

そして彼女は、まるで夜空に浮かぶ満月のようにまばゆい光の玉へと変わっていく。

ゆっくりと、静かに、少女だった光の玉は上空へと舞い上がっていく。

その光に導かれるように周囲に点滅していた小さな光たちも一斉に飛び立った。

無数の光が夜空を舞い、まるで夜景に映える天の川のように美しい光の帯を作り出す。

天に伸びる光のロードは美しくも儚く…その光景にただただ見とれ、言葉を失った。

それは蛍の化身である少女の別れの挨拶なのか、それともこの山に残された最後の美しさなのか?


光の帯が夜空の彼方へと消えていくまで、そこに立ち尽くしていた。







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蛍が遺した道 SHOKU=GUN @syou-ga-415

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